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中森康之ブログ

蔵王堂秘仏ご本尊金剛蔵王大権現特別ご開帳

吉野の金峯山寺で、国宝仁王門修理勧進として、蔵王堂秘仏ご本尊金剛蔵王大権現の特別ご開帳がされている。
拝観に行く。


ロープウェーを下りて歩いて行くと道端に。


国宝 仁王門


少し紅葉しています


さすがに迫力があります


蔵王堂

中は撮影禁止。

ご本尊、初めて拝観致しましたが、それはもう素晴らしいものでした。

仏様というと、穏やかな優しいイメージをもっておりましたが、なんと荒荒しいことか。しかしこの荒々しさを内に秘めてこその優しさなんでしょうね。この荒荒しいご本尊の前に正座してお参りしていると、自分自身はなんとも穏やかな気持ちになってゆきます。邪念を払って下さったのでしょう。
合掌。

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移動基本

武道部の稽古で久しぶりにきつい移動基本をやった。
ほんとうに久しぶりである。

移動基本をやると、その人自身が露わになる。

今回、限界が近づくにつれて、さらに自分を追い込んでいたのは3人。
うち1人は、限界を超えてしまった。

ほんとうにしんどかったと思う。

みなさんの頑張りに乾杯!

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マスターの新しい店

昨日マスターの新しい店に行った。

なんと看板も何もない。外から見てもやってるかどうかよくわからない。
恐る恐る大きい木の扉を開けると、奥の方からマスターが「いらっしゃい」と言って出て来た。

営業時間も、定休日も不明です(^∇^)
運が良ければマスターがいて、珈琲が飲めます。そうそう、店の名前もまだありませんでした。もちろんメニューなんてもってのほかです。
でも久しぶりに飲んだマスターがお珈琲はとても美味しかったですよ~。

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検査結果

午前中ゼミ。
午後から、先週の検査の結果を聞きに行く。
既に結果は分かっていたのに、行く必要があるのか?と思いながら。

異常なし。

ご心配頂いた方、ありがとうございました。

その後、マスターに電話して、新しい店に行く。

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再開

11月17日以来、ほぼ1ヶ月の間ブログを休んでおりましたが、再開します。
自分の備忘録でもあるので、遡って書いていきます。
ご迷惑をおかけしますが、ごゆるりとお付き合い下さいませ。

12月19日 中森康之拝

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「ラムネ氏のこと」

坂口安吾に「ラムネ氏のこと」というエッセイがある。

小林秀雄と島木健作が小田原へ鮎釣りに来て、三好達治の家で鮎を肴に食事のうち、談たまたまラムネに及んで、ラムネの玉がチョロチョロと吹き上げられて蓋になるのを発明した奴が、あれ一つ発明しただけで往生を遂げてしまったとすれば、をかしな奴だと小林が言ふ。

と始まる。

すると三好が居ずまひを正して我々を見渡しながら、ラムネの玉を発明した人の名前は分かってゐるぜ、と言い出した。
ラムネは一般にレモネードの訛だと言われてゐるが、さうぢゃない。ラムネはラムネー氏なる人物が発明に及んだからラムネと言う。これはフランスの辞書にもちゃんと載ってゐる事実なのだ、と自身満々たる断言なのである。

そしてこのことをめぐり、文章は続く。
これがとてつもなく面白い。
それでいて、非常に深い人間の洞察を含んでいる。

(中)になると話は変わり、信州の奈良原という鉱泉での話になる。これが(上)以上に笑える名文である。そしてさらに深い人生の真実が語られている。
(下)は、伴天連(バテレン)達が「愛」という字の翻訳に苦労した話が語られる。

そして(上)(中)(下)は最後に見事に一つに結ばれてこの名エッセイは閉じられる。

坂口安吾のエッセイは非常にいい。
こういうのを名文というのである。
青空文庫で読めるのでぜひお読み頂きたいと思う。

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狂言鑑賞会

娘の通う学校で芸術鑑賞会なるものがあり、行ってきた。今年は狂言鑑賞。

解説コーナーや体験コーナーもあり、高校生も、保護者の方も、みな楽しんでおられた。もちろん私も楽しんだ。身体の使い方も勉強になった。

狂言の合間に能の囃子があったのは、そういう時代ということなのだろう。しかしそれでも、「今時の高校生」たちが充分に狂言を堪能している姿は、とても頼もしいものだった。

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寺田寅彦「科学と文学」

今日の国文学2は、先週に引き続き寺田寅彦の「科学と文学」。

今日の範囲は「言葉としての文学と科学」、「実験としての文学と科学」。

文学が言葉であると同じように、科学も言葉である。
ここで問題である。次の文章の【 ① 】には、科学(論文) 文学(小説)のいずれが入るだろうか?

吟味が充分に行き届いた【 ① 】であれば、それを読む同学の読者は、それを読むことによって作者の経験したことをみずから経験し、作者とととに推理し、共に疑問し、共に解釈し、そうして最後に結論するものがちょうど作者のその著によって発表せんとした内容の真実性とその帰結の正確性とを承認するのである

答えは、「論文」。つまり、これは科学について述べた文章なのである。しかしここに「小説」と入れても何ら違和感はないのではないだろうか。ここに記述されている体験が、村上春樹の小説を読んだ読者の体験の記述であったとしても。

寺田は、科学は言葉であるという。その意味は、言葉である以上、科学はは必ず表現されなければならないということである。つまり、他者に向かって表現されて、だれでもがそれを読むことが出来て、追体験できるのでなければ科学ではないのだと。

ある学者が記録し発表せずに終わった大発見というような実証のないようなものは(略)科学界にとっては存在がないのと同等である。

つまり、寺田が言っているのは、科学とは言葉であり、言葉である以上、表現されなければならない。そしてそれが読者による追体験、つまり検証に耐えるものでなければならない、ということである。ここでカール・ポパーの「反証可能性」を思い出すのは私だけではないだろう。

さらに寺田はこう続ける。

もっとも読者の頭の程度が著者の頭の程度の水準線よりはなはだしく低い場合には、その著作にはなんらの必然性も認められないであろうし、従ってなんらの妙味も味わわれずなんらの感激をも刺激されないであろう。

しかしこれは文学的作品の場合についても同じことであって、アメリカの株屋に芭蕉の俳諧がわからないのも同様であろう。

なかなか手厳しい。

しかしこのように考えると、一体文学と科学の違いはどこにあるというのか?それは、科学が「普通日常の国語とはちがった、精密科学の国に特有の言葉を使うことである。その国語はすなわち「数学」の言葉である。

では、「普通日常の国語」と「数学」はどう違うか。「数学」は、「日常の言葉と違って一粒えりに選まれた、そうしてきわめて明確に定義された内容を持っている言葉である。そうしてまたそれらの言葉の「文法」もきわめて明確に限定されていて少しの曖昧をも許さない」。

しかし、と寺田はいう。

事実は決してそれほど簡単ではない。

「数学は他の畑から借用して来た一つの道具であって、これをどう使うかという段になると、そこにもう使用者の個性が遠慮なく割り込んで来る」と。

ここで寺田が直観しているのは、「数学」が決して厳密に定義された言葉ではないということである。これもウィトゲンシュタインやクリプキを知っている私たちには既に馴染みの考え方であろう(私のウィトゲンシュタイン理解は、『はじめての哲学史』(幻冬舎)に書いたのでそれを見て下さい)。

さらに寺田は、数学が文学的であると同様、文学も数学的ではないか、ということに思いを巡らす。すなわち、

もしも、人間の思惟の方(ママ)則とでも名づけられるべきものがあるとすれば、それはどんなものであろうか。(略)自分はそこにまず上記の微分方程式のことを思い出させるのも一つの道ではないかと思うのである。

人間の思惟の方則、情緒の方則といったようなものがある。それは、まだわれわれのだれも知らない微分方程式のようなものによって決定されるものである。

われわれはその式自身を意識してはいないがその方則の適用されるいろいろの具体的な場面についての一つ一つの特殊な答解のようなものを、それもきわめて断片的に知っている。そうして、それからして、その方程式自身に対する漠然とした予感のようなものを持っているのである。

ここで寺田が述べている「方則」をフッサールは「本質」と呼んだ。ウィトゲンシュタインは、「ルール」と呼んだ。それは、厳密に取り出すことも、根拠づけることもできない。しかし私たちが普通に生活する中で、すでに、つねに知っているものである。フッサールもウィトゲンシュタインも、そしておそらく寺田も、それが厳密に根拠付けられないことに大騒ぎするのではなく、厳密に最終的には決して根拠づけられないにも関わらず、現にそれが通用していることを肯定的にとらえようとしたのである。

寺田の文章はここからどこに向かうのか。それは来週の授業までのお楽しみである。と思ったら、これから2週続けて木曜日の授業はないのであった。

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日本語法2ー「間」について

今日の2限は日本語法2(C)。
テーマは「間」。あいだではなく「ま」。

間を考えるのに分かりやすい動画をいくつか見る。
YouTubeを使っての授業だが、これって、授業で使っていい動画とそうでない動画があるのかな?
ダウンロードではなく、再生するだけならいいのかな?
正直よく分からない。
一応、念のため気を付けてはいる。

図書館に入れてもらうDVDに関しては著作権処理をしたものを入れてもらっているので、それを使うのは大丈夫である。

さてさて、それにしても「間」はとても難しい。
最近たけしさんが『間抜けの構造』(新潮新書)という本を出された(まだ読んでいないけど)。
むかしパペポTVで、鶴瓶さんが上岡龍太郎さんに、「間」について解説しておられた。

むかしはダメな人、使えない人を、「間に合わない奴」といった。
時間に追われる現代では、もっぱら「時間に遅れる」ことを意味するようになった。

『日本国語大辞典』で「間に合う」を引くと、

1)役に立つ。急場の役に立つ。
2)足りる。十分である。
3)時間に遅れずにすむ。時間までに着く。

とある。「時間に遅れずにすむ」なんて最後の意味なのだ。

しかしこんなことを書いていたら武道部の稽古に間に合わなくなる。

ほなこのへんで、は~ さいなら~。

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養生、養生

今日はゼミをお休みして、検査のため病院へ。
毎年人間ドックで何かしらひっかかる。
特に昨年から調子を崩していたので仕方ない。むしろ、回復期に入っていて、予想より結果は良かったと思う。
幸い、たぶん何ともなさそうであった。

このような生活を続けながら、養生、養生、と虚しく繰り返すのみである。

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