中森康之ブログ
俳文学会第63回全国大会(2)
ホテル近くのカフェを出て、歩いて東洋大学へ。
20分ほど歩く。
何やら歩道の両脇に数人の人が。
直前問題です~
頑張って下さい~
頑張ります。
でも、今回は研究発表しないんですけど。
インテリアコーディネーター資格試験
あら、同じ場所で試験があったんですね。
どっから見てもインテリアコーディネーターを目指しているように見えるらしい。わたくし。
インテリアコーディネーターの試験って、どんなんだろう??
と興味をひかれつつも、わたしくしはこっちに出席せねばならぬ。
俳文学会第63回全国大会
どっから見ても俳諧研究者に見えないわたくし、研究発表を聴講。
さらに午後の部後半の司会をつとめ、研究発表は無事終了。
もう一人の司会の方と話していて席に戻るきっかけを失ってしまった。最後のご挨拶、終了宣言まで司会者席に座っていた司会者は、たぶん私たちくらいだろうと思う。
来年は尾崎さんの山口大学。研究発表しますよ~
俳文学会第63回全国大会(1)
俳文学会第63回全国大会(於東洋大学)に出席。
少し早めに行って、記念展示「久富哲雄の『奥の細道』写真展」を見る。
素晴らしい展示だった。古い写真には味がある。「時間性」を持っているからである。それが「いのち」というものなのであろう。何十年も前に撮った写真が、今撮ったものと変わらないのではなんとなく違和感がある。古い写真は古くあってほしい。
同時展示の「追懐 俳文学会草創期」も素晴らしかった。
昭和26年11月3日~4日の「俳文学会秋季大会」集合写真。名前だけしか知らない有名人が勢揃いである。
「俳文学会会報」第1号(昭和26年5月20日)。俳文学会設立についての熱い思いが語られている。
井本農一宛書簡。井本農一手書メモ。当時の研究の状況や井本先生のちょっとしたお考えが書かれていてとても面白かった。
その他にも興味深い資料が沢山あった。普段の学会展示とは違った展示を試みたということであったが、私は、この展示を見ただけで、もう学会にきた甲斐があったというものである。
さて、至福の時を過ごした後は委員会に出席。そしていよいよ大会が始まった。
初日はシンポジウム「俳句記念館の明日を考える」。
これも普段の全国大会にはない企画で、とても勉強になった。
その後は懇親会。ここでもかなり興奮する資料を見せて頂く。
ということで初日は興奮の連続であった。
21世紀日本文学ガイドブック5『松尾芭蕉』
21世紀日本文学ガイドブック5『松尾芭蕉』(ひつじ書房)が届いた(佐藤勝明編 奥付は2011年10月8日)。
http://www.hituzi.co.jp/hituzibooks/ISBN978-4-89476-512-2.htm
私は「蕉門を彩る人々」という章を担当した。
届いたばかりでまだじっくり読んでいないけれども、ぱらぱらと見た感じでは、入門書ではあるが学会の最先端の研究を盛り込んだ高い水準の本にしたいという編者の佐藤さんの意気込みに各執筆陣が応えているようである(あくまで自分の文章は棚に上げてですけど)。
かなりの力作揃いだと思う(あくまでぱらぱらと見た感じですけど)。
何より、この執筆陣がどんな説を披露しておられるのか、私自身が知りたい(あくまで自分以外の執筆者のことですけど)。
私自身がじっくり読んでみたい本である。
表紙の画は、編集の方のご友人の作とか。侘びさびの詩人芭蕉とは違った、新しい芭蕉像が提示されていることを暗示しているような装幀である。
鬼プロデューサー今井彰塾
- 2011-10-06 (木)
- 日記
先日講演を聞いた今井彰さんのメルマガが創刊された。
http://www.mag2.com/m/0001341971.html
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社会現象と呼ばれたプロジェクトX。
ヒット生むのは企画力と人間観察、そして取材力。
すべての仕事に共通することです。
とっておきのノウハウやテレビ番組屋30年間のキャリアだから言える裏方話をお伝えします。
さらに不良債権、湾岸戦争などハードドキュメンタリーで磨いた観察眼で今起きている出来事に斬り込みます。
この厳しい時代を生きる武器にして下さい。
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ビジネスパーソンの悩み相談コーナーもある。
若い人に、夢と希望と勇気を与えてくれそうなメルマガで、とても期待している。
若い技術者にとっても、様々なヒントが満載されるのではないだろうか。
凡事の蓄積と非凡化
『日経ビジネス』の案内が送られてきた。
その中に、2011年5月9日号に掲載された、野中郁次郎さんの言葉が紹介されていた。
日々の仕事という凡事の連続が蓄積していく中で、ある時、非連続が生まれ、凡事が非凡化する。それがイノベーションにほかならない。その変化は、日々の凡事を積み重ねているから気づくことができる。
早速本文を読んだ。
短い談話だが、非常に面白かった。
野中さんは、「資本主義の本質をイノベーション(革新)による不断の発展過程ととらえた経済学者ジョセフ・シュンペーターは、その担い手を既存構造の破壊と創造(創造的破壊)を遂行する「アントプレナー」と位置づけた」が、日本の場合は少し違った展開をしたという。
それは「衆知経営」(松下幸之助)である。社員一人ひとりが「実践的な智恵」をもって動ける経営である。では、そのような社員の「実践知」を高めるには何が必要か。
第1に現場での「即興の判断力」だ。
そのためには、何が「善いこと」なのかという価値基準が共有されていなければならないという。
「善いこと」に対する価値基準を共有し、あとはそれに従って一人ひとりが現場で具体的な判断をして実践してゆくというのである。野中さんの談話のニュアンスからは、昔の日本企業はそれができていた、と受け取れる。
おそらくそうだろうと思う(もちろん今でもそういう企業はたくさんある)。
日本の教育は長らくそのような教育を行ってきた。「そのような」というのは、一部の優れた人材を養成するのではなく、基本的には同じことを徹底して繰り返し、全員それを修得することを前提としてきた、という意味である。いわゆる「底上げ」教育をしていたのであり、それがそのまま日本の「底力」となったのである。そして重要なのは、これまでも数多くいた日本の優れたリーダーたちも、まさしくそのような「底力」の基盤から生まれたということである。
小山田良治さん(五体治療院代表)が「結局はトップアスリートほど、こうした地味なトレーニングを大切にしているんです」(小山田良治監修 織田淳太郎著『左重心で運動能力は劇的に上がる! 』(宝島社新書)あとがき)というように、トップアスリートほど「底力」の大切さを理解している(こちら)。マエチンが同じことを何度も繰り返すことについては、このブログに何度も繰り返し書いている(同じことを繰り返す)。
だが、一般的にはそのような価値観が否定されてから、もう数十年がたつ。もっと生徒が主体的に、個性的に、自ら学び考える教育がよしとされた。「底力」ではなく、トップパフォーマンス?(「底力」の反対は何と言うのでしょうね?)を引き上げることが推奨されたのである。
では企業の、「現場での実践知を弱体化させ」たものは何か。
米国流の経営に強く影響を受けた分析至上主義と過剰なコンプライアンスだ。
と、野中さんは述べている。これが現場での「即興の判断力」の妨げになっていると。
そして、
実践知を高める第2の条件は、「凡事の非凡化」である。
「凡事」とは、「底力」のことである。「非凡」とはイノベーションである。「非凡」は「凡事の蓄積」から生まれる。その逆ではない。そう野中さんは言っているのだと思う。
企業が直面する多くの混乱や困難を乗り越えるには、イノベーティブな試みが必要になる。ただ、イノベーションは、「やろう」と思い立って起こせるものではない。日々の仕事という凡事の連続が蓄積していく中で、ある時、非連続が生まれ、凡事が非凡化する。それがイノベーションにほかならない。その変化は、日々の凡事を積み重ねているから気づくことができる。
イノベーションは、「日々の凡事」の連続からしか生まれない。「日々の凡事」がなければ、それがイノベーションであることにも気づくことができない。一時期よく言われたセレンディピティも、「凡事の連続」の蓄積なしにはあり得ないはずである。
そうだとすると、「創造性」を養う教育、イノベーションを起こせる人材育成にほんとうに必要なのは、「凡事の連続」なのではないのか。個性を発揮し、主体的に動け、現場で高い実践知を発揮できる人間を育成するために、「共通善」の価値観の共有と「凡事の連続の蓄積」が必要なのではないのか。
私には、「イノベーション、イノベーション」と叫び、「非凡」を評価し「凡事」を低く見る価値観が、そこ(イノベーション)からどんどん離れていっているような気がしてならない。求めるものは足下にある、というのは昔から教えられてきたことではなかったのだろうか。「脚下照顧」とは履き物を揃えよ、ということだけではないのである。
自分に嘘をついては……
ある方とマスターのところへ。
教育、建築、感性と工学の話をする。
とても共感できることが多かった。
彼は自分のめざすもの、自分の方法に対して、常に自問自答しながら、迷い悩みながら研究を進めていることがよく分かった。
嬉しかった。その感度が私にはとても大切なのである。
彼は感性や感覚をとても大切にしている。しかしそれを工学の中で展開するのはとても難しい。しかしそこが自分が立っている場所である以上、そこで実現するしかない。それを諦めずにやろうとしている。
彼は数年前、日本との関係を絶ち、海外に一人で出かけた。そこで暮らすうちに、初めて自分に突きつけられたことがある。
所属や立場を捨てて裸になたっとき、自分に何ができるのか。
彼はそれを必死に考え、求めた。そして、こう思ったという。
自分に嘘をついて生きてゆけない。
彼には大きい仕事をしてほしい。
白川静「文字講話」DVD完全収録版
白川静「文字講話」DVD完全収録版全24回の第一話「文字以前」を見る。
恥ずかしながら白川静さんが話しておられるお姿を初めて拝見した。もちろん。お声も初めて聞いた。
第一話は88歳(89歳の直前)。非常に力強い講義である。聴衆に媚びず、凛とした態度で講義されている。切れもテンポもいい。話のレベルも極めて高い。
余計な装飾が一切無く、学問の話だけに集中した講義。すばらしい。「学者」の講義とはこういうものだと思わせる。それが、ご本人の「声」で聞けるのが有り難い。本から聞こえてくる声と生の声は全く違うからである。ちなみに私が今まででその違いに一番驚いたのは小林秀雄だった。
学者の中の学者のご講義。これから順番に、心を引き締めて聴講致します。
大学祭1
- 2011-10-01 (土)
- 日記
近世文学会のみなさんは韓国で盛り上がっていらっしゃることと思います。
お気を付けて充実した時間をお過ごし下さい。
さて、私は大学祭です。
盛り上がってます~
魯山人『個性』を読む
北大路魯山人の『個性』を読んだ。
字でいえば、習った「山」という字と、自分で研究し、努力した「山」という字が別に違うわけではない。やはり、どちらが書いても、山の字に変わりはなく「山」は「山」である。違いは、型にはまった「山」には個性がなく、みずから修めた「山」という字には個性があるということである。みずから修めた字には力があり、心があり、美しさがあるということだ。
魯山人ほどの人が型の重要性を理解していないはずはない。この文章も型に対する陳腐な理解ではなく、型の恐ろしさを十分知り尽くしている人間の言葉と解すべきだろう。
型から入り、それに徹することによって自ずから型から抜け出し、個性は出てくるのであるが、その際重要なのは、自ら修得しようという「精進」である。
習うな、とわたしがいうことは、型にはまって満足するな、精進を怠るなということだ。
この「精進」への執念がなくては、型から抜けられない。
型を抜けねばならぬ。型を越えねばならぬ。型を卒業したら、すぐ自分の足で歩き始めねばならぬ。
ではこのためにどうすればいいか。最初にまず徹底的に「型にはまる」ことである。型に徹するためには、それまでの自分を一端全部捨てねばならない。これは極めて困難である。武道の修行を初めれば、誰でも「型通りに動く」ことがいかに困難かがすぐに分かる。
だが「型にはまって満足する」人とは、実はこの「はまり」が中途半端な人なのである。徹底して「型にはまった」人は、その徹底によって自ずと型を越え出て行く。なぜなら「自分の足で歩」くことができる人でなければ、型にはまりきることができないからである。
それまでの自分の「自然」と、型の要求する「自然」は最初は矛盾する。型通りに動いたり、考えたりすることは、普通の人間には最初、とても「不自然」なのである。自分の動きと型の要求する動きが齟齬したとき、中途半端な人は、自分の動きを大切にする。そういう人こそが、いつまでも型から抜けられないのである。
もちろんうまく型にはまれたとしても、途中で「精進」を忘れてしまっては、やはり型から抜け出せない。そういう人は、一応、「正しい」ことができるから逆に始末が悪い。
型にはまって習ったものは、仮に正しいかも知れないが、正しいもの、必ずしも楽しく美しいとはかぎらない。個性のあるものには、楽しさや尊さや美しさがある。
大切なのは「楽しさや尊さや美しさ」であって、「正しさ」ではない。「正しさ」なんて、誰でも辿り着ける。
しかも、自分で失敗を何度も重ねてたどりつくところは、型にはまって習ったと同じ場所にたどりつくものだ。そのたどりつくところのものはなにか。正しさだ。
魯山人は、自分で試行錯誤を重ね、精進を重ねれば、「楽しさや尊さや美しさ」が生まれ、さらには、型など習わずとも「正しさ」に辿り着けると考えていたようである。やはり天才だったのかも知れない。
さて、個性については、魯山人はこう述べている。
それでは、個性とはどんなものか。
うりのつるになすびはならぬ――ということだ。
自分自身のよさを知らないで、ひとをうらやましがることも困る。誰にも、よさはあるということ。しかも、それぞれのよさはそれぞれにみな大切だということだ。
それぞれにそれぞれのよさがあり、無い物ねだりをしてはいけないということである。
こうも言っている。
牛肉が上等で、だいこんは安ものだと思ってはいけない。だいこんが、牛肉になりたいと思ってはいけないように、わたしたちは、料理の上に常に値段の高いものがいいのだと思い違いをしないことだ。
だいこんがだいこんであることのよさを忘れず、型に囚われず、自ら修めようとする志をもって試行錯誤に励んだとき、楽しさも美しさも個性も自ずと生まれる。そう魯山人は言っているのである。あるいは逆に、それが生まれるまで「精進」せよ、ということか。
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