中森康之ブログ
ここ数日
- 2011-08-16 (火)
- 日記
ここ数日更新できなかったのでまとめて備忘録。
11日
午前中、掃除をしながら仕事。加湿器も綺麗に。
午後から中日文化センター『おくの細道』。
終了後、五体治療院へ直行。
TEAM s40の結成式典に参加。
五体での様子はこちら。
12日
帰省。過去最大級の渋滞。しんどかった~
13日
大阪城。
大繁盛。
人々がこれほど大阪城に興味があるとは知らなかった。
全ての展示をじっくり見たいという娘の要望で、3時間半ほど見学。
なんでも修学旅行の時はほどんと見学の時間がなかったとか。
これで復習完了。
大阪城公園は暑かった~
おそ~い昼食はぼてぢゅう。
とんぺい焼
14日
レポートの採点
15日
転害門。
前に紹介したが、小川師匠がたけしアート☆ビートで紹介しておられた転害門へ。
私は奈良に住んでいたのに、子どものころに転害門に行った記憶がない。たぶん行ったことはあるのだろうが、全く覚えていないのである。しかし奈良の住人にとってはごく当たり前の場所で、当然の如く私の家族はみんな知っていた。
なんとも恥ずかしい~
遅ればせながら、しばし堪能。
行きに寄れなかったお墓に寄って豊橋へ帰る。
早い時間帯だったためかそれほど渋滞せず夕方に到着。
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ハートの日
- 2011-08-11 (木)
- 日記
ハートの日のイベントに行ってきた。
昨年の徳光さんからもう一年になる。
仕事が山積していたので、最後の座談会だけ聴講。
鈴木院長は相変わらずのマイペース全開。
宗田先生もいつもの味を出しておられた。
江部先生はご自慢の歌を披露。
丸山先生も興味深いお話。
と、かなり面白かった。
宗田理先生と少しお話をして、再び仕事をすべく大学に戻る。
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同じことを繰り返す
- 2011-08-10 (水)
- 武道部
昨日、ある通信教育の会社の方とお話をしていたとき、その方が同じことを繰り返すことの重要性について話された。同感である。
武道では同じことを繰り返す。型はその典型である。私たちのところ(剛柔流)には型が12個しかない。何十年もそれを繰り返し稽古するのである。型以外でも同じで、稽古は基本的に同じことの繰り返しである。
ところで私が大学生の頃は、主体性と個性を育てる教育が重要であると繰り返し説かれた。しかしその結果、「個性的でなければならない症候群」を作り出し、自分には個性がないのではないかという不安と強迫観念?を抱えた若者を量産したことについてはしばしば述べている通りである。
そのことは今回はおいといて、もう一つ、大学生のとき、主体性と個性を育てるために、教師は、授業を工夫し、授業外での指導も工夫することの重要性を教えられた。「子どもの興味をひく授業の導入とは?」「子どもが自分で考えられる授業の工夫とは?」などなど。
しかし学びにおいて重要なのは、同じことを繰り返すことではないだろうか。そうだとすると、教育における工夫とは、同じことを繰り返すことにおける工夫でなければならない。
同じこと、というのは、同じアウトプットということである。
毎朝同じ時間に起きるとか、毎回同じ道順で学校にいくとか、毎回同じ動作でバッターボックスに入るとか。しかし、毎朝同じ時間に起きようとすると、眠いときもあればすっきり起きられることもある。同じ日に焼いた珈琲豆を、3日前と今日とで同じ味に淹れようと思えば、淹れ方は少し違ってくる。○度のお湯で蒸らしは○秒などと、まったく同じに淹れれば、同じ味にはならない。
自分の感覚をたよりに同じアウトプットを繰り返す。これを続けていると、感覚の感度が上がってくる。自分や外部の微妙な変化に敏感になる。そしてそれを楽しめるようになってくる。
学びにおいて、この同じことの繰り返しにおける微妙な変化に気づくことと、それを楽しめる感度の高さが非常に重要である。この感度が低い人は、学びの契機を自分で失うし、何よりすぐに飽きてしまって続かないからである。
ということは、その感度をこそ教育によって鍛えることが大切なのではないだろうか。それを教師の側が、手を変え品を変え、つまりアウトプットにおいて子どもを飽きさせない「工夫された」授業をしてしまっては、その感度をどうやって高めようというのだろうか。教師が手を変え品を変えて「工夫」すればするほど、子どもたち自身が「いつもと同じこと」を「いつもと違うように感じる」工夫をする契機を奪うことになるのである。
教師が「工夫」すればするほど子どもたちは自分で工夫しなくなる。当たり前のことである。自分でしなくても、教師がやってくれるんだから。そういう「工夫」を教師は絶対やってはいけない、と思う。もちろん教師は工夫をしなければならない。しかしその工夫のしどころを誤ってはいけないのである。
いつもと同じことを、いつもと違うように感じる。その感度をもって、いつもと同じことをやる。それができてくれば、人は自分で学んでゆく。
と、ここまで書いたときに、絵実子さんが部屋に入ってきた。
マエチンの面白い記事みつけました~
読んでみた。
涙がでそうになった。
これ、泣きそうになるなあ。
そうでしょう~ 泣きそうになりますよねえ~
と言って絵実子さんは泣いた。
詳しくは記事(晋遊舎ムック「ザックジャパン完全ガイド」所収)を読んで頂きたいが、この記事の中にも、「同じことを繰り返す」話が出て来た。
マエチンの中高生時代の林先生のお話。
朝7時から朝練習をやっているんだけど、ヤツは必ず6時15分に来て、あそこの壁に向かってずっとボールを蹴っているんですよ。オレもだいたい同じ時間に来るんだけど、アイツは雨が降ろうが風が吹こうが、試験の前だろうが、必ず6時15分に来て一人でボールを蹴っている。一日も休まず、ずっとね。
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しばらくはこれメインで原稿を書くはずが……
- 2011-08-09 (火)
- 日記
つい先日、「しばらくはこれメインで原稿を書いてみよう」と宣言したLifeTouch NOTE。実は初期不良でした(T T)。
音が出ない。
今から思えば、届いた時から出ていなかったが、音楽も動画も再生しなかったので、別に意識していなかった。金曜日に、「孫正義×堀義人 トコトン議論 ~日本のエネルギー政策を考える~」の生中継を見ようとして発覚。音が出ない。おまけに念のため持って帰っていたノートPCでもうまく再生できず断念。もっともトコトン議論の方は昨日全部見た。
さて、仕方ないので月曜日を待ってサポートに電話。結局引き取り修理をしてもらうことに。
原稿書く用のマシンだから音がでなくてもいいんだけど、たまに上記のようなことがあると困るので修理してもらおう。
久しぶりにNECのマシンを買ったのだが、とても残念。
はやく戻ってきてね~
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渡辺敦雄先生講演会in湖西市
- 2011-08-07 (日)
- 日記
8月6日。
湖西での渡辺敦雄先生の講演会に行った。6月3日に本学で開催した講演会に来て下さっていた湖西市長夫人の主催されている会での講演である。6月仕事でどうしても来られなかったくり坊を連れて行く。
演題は「福島第一原子力発電所と浜岡原発」。
待ち合わせ場所の鷲津駅を確認してから喫茶店を探す。
おっ、ありました。
喫茶店というより、喫茶のあるケーキ屋さんでした。せっかくだからケーキも注文。
器も味もgood。
WiMAXがはいらなかったことだけが残念。
さて、約束の時間の少し前に鷲津駅へ。
市長と市長夫人はすでに到着されていた。ほどなく渡辺先生も約束より1本前の電車で到着。
約束の15分くらい前には全員集合してしまった。
講演前に懇談会。
その後講演会場へ。会場でもしばし懇談。いざ講演会。
バージョンアップしていて、いい講演会だった。
質疑応答も活発。
それにしても渡辺先生の質疑応答能力にはいつも驚かされる。なぜあの質問が理解できるのだろうか、という質問に的確に回答される。お見事という他ない。
講演会終了後、市長は次の予定へ。市長さんは大変ですね。
市長夫人としばし懇談。阪神淡路大震災のときには神戸に住んでおられたという話をお聞きし、縁を感じる。私が学生時代住んでいた場所の近くだった。
しばし歓談後、渡辺先生を鷲津駅にお送りし、一路豊橋へ。尚志館には間に合わない時間だったので、夕食場所に直行。6時半前に尚志館組が集合していつもどおりの土曜日となった。
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it珈琲
- 2011-08-06 (土)
- 日記
昨日芭蕉の「日々より月々年々の修行ならでは」について書いた。
この言葉には、長い長い修行は、一日一日のしかも小さいことの積み重ねでしかないというニュアンスが込められている。
「長年修行しないと」というのと、「毎日の修行に始まって、それが毎月毎月の修行となり、それが積み重なって毎年毎年の修行となる。それなしには」というのとではだいぶニュアンスが違うだろう。
「日々」の修行には「時々」の修行がある。「時々」の修行には「分々」の修行がある。こうやって限りなく細分化されてゆく。これがどれくらい細分化できるかが、その人の修行のレベルを表しているのである。年単位で時間を考えている人と、秒単位で体感している人とでは、内的な時間感覚がまるで違う。そしてこれが細分化されつくしたとき、切れめはなくなる。「分別」はなくなり、流れのなめらかな連続となる。「無」となるのである。
このブログでもしばしばご登場いただく阿波研造師範に次のようなエピソードがある。「彼」というのが阿波師範である。
その頃、ある日のこと、私が一射すると、師範は丁重にお辞儀をして稽古を中断させた。私が面食らって彼をまじまじと見ていると、「今し方“それ”が射ました」と彼は叫んだのであった。やっと彼のいう意味がのみ込めた時、私は急にこみ上げてくる嬉しさを抑えることができなかった。
「私がいったことは」と師範はたしなめた、「賛辞ではなくて断定に過ぎんのです。それはあなたに関係があってはならぬみのです。また私はあなたに向かってお辞儀したのでもありません、というのはあなたはこの射には全く責任がないからです。この射ではあなたは完全に自己を忘れ、無心になって一杯に引き絞り、満を持していました。その時射は熟した果物のようにあなたから落ちたのです。さあ何でもなかったように稽古を続けなさい。」(オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』福村出版94頁)
術のない術とは、完全に無我となり、我を没することである。あなたがまったく無になる、ということが、ひとりでに起これば、その時あなたは正しい射方ができるようになる。(同『日本の弓術』岩波文庫30頁)
時間の細分化も空間の細分化も主客の細分化も同じである。細分化されつくしたところに「無分別」が現前するという逆説がある。
「“それ”が淹れました」。この境地に至るべく私は毎日珈琲を淹れている。名付けて「it珈琲」(IT(アイ・ティー)ではありませんよ~)。
ここ数日、「お湯をのせる」感覚に変化があった。日々の修行の楽しみは、たまに、そして唐突にやってくるその微々たる変化を待ち、そしてやってきたら機を逸することなくつかまえることにあるのかも知れない。
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日々より月々年々の修行ならでは
- 2011-08-05 (金)
- 研究
芭蕉が元禄7年1月29日、怒誰に宛てた書簡に次のような文章がある。
御修行相進候と珍重、唯小道小枝に分別動候て世上の是非やむ時なく、自智物をくらます処、日々より月々年々の修行ならでは物我一智之場所へ至間敷存候。誠御修行御芳志、頼母敷貴意事に令感候。仏頂和尚も世上愚人に日々声をからされ候。(引用は今栄蔵『芭蕉書簡大成』(角川書店)
今、田中善信『全釈芭蕉書簡集』(新典社)によって現代語訳を示すと次のようになる。
禅の修行が進んでいるとのこと、結構なことです。ただ、枝葉末節に分別が働いて、世俗的な利害に心が安まるひまがなく、自分の小賢しい智恵で物が正しく見えない状況、これが我々の日常ですが、日々、月々、年々修行を積んでゆかなければ、物と我と一致する境地に至ることはあるまいと思います。真剣に仏道修行に専念しているお志がたのもしく、とりわけあなたのお気持ちに感銘を受けております。仏頂和尚も世間の愚かな人々を導こうと、日々声をからして教えを説いております。
怒誰(どすい)は近江国膳所の藩士で芭蕉の門人。同じく蕉門の曲翠(曲水)の弟。『荘子』の思想に傾倒しており、芭蕉の思想に共感していた。この書簡の前半では、芭蕉の禅の師である仏頂和尚が芭蕉庵にやってきた折のことが報告されている。
さて、ここで芭蕉は、私たちの日常は、枝葉末節に自分の理性や欲望が働いて、あれがいい、これがダメだ、などと騒ぐばかりで、心休まる暇がなく、物が正しく見えない、と述べている。
「自智物をくらます」。智(知)は、もののほんとうの姿を見えなくする。普通私たちは、知識や智恵が物の本質を明らかにすると考える。だからそれらを身に付けるべく勉強をする。しかしそれは逆だというのである。
また、ここでは「自智」を「自分の小賢しい智恵」と訳しているが、ここでいう智には「自分の小賢しい智」と「そうでない正しい智」があるのではない。芭蕉がここで言っているのは、全ての智は、我欲にとらわれた浅はかなものである、ということである(田中氏もその意味で訳しておられるはず)。
だからその対極が「物我一智」(物我一致)の境地なのである。我も物もない境地。ここでは主体はとろけている。だから知識も知恵も分別もない。ただただ全ての流れと一体化しているので、「自分」というものがない。これを芭蕉は別の言い方で、「四時を友にす」とか、「造化へ帰れ」とも言った。
我欲をすて、自我を捨て、主体をとろけさせて、宇宙・自然と一体となる。全ての流れになる。そこに「私」はない。
同じことは芭蕉に限らず、思想家であろうが文学者であろうが宗教家であろうが武道家であろうが、たくさんの人が説いているし、その解説も備わっている。だからいまさらこここで大げさに解説するほどのことでもない。
ただ私は、自分に言い聞かせるために同じことを何度も繰り返し言う他ないだけである。しかしほんとうに自分に言い聞かせたいのはこちらである。
日々より月々年々の修行ならでは物我一智之場所へ至間敷存候(日々、月々、年々、長い長い修行を積んでゆかなければ、その境地に至ることはあるまいと思います)。
「日々より月々年々の修行ならでは」。いい言葉ですねえ。
最近twitterの方で報告しているが、毎日阿波研造師範の Itの境地による珈琲淹れ修行を楽しんでいる。私のような不器用な凡夫には、「日々より月々年々の修行ならでは」一杯の珈琲さえ満足に淹れられないのである。
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LifeTouch NOTE1~Text Editor
- 2011-08-03 (水)
- 日記
Jota Text EditorというEditorが評判が良かったのでインストールして使っている。
すばらしい。まず、
– 100万文字程度までのテキストファイルに対応(Alphabetで1MBytes/ShiftJISで2MBytes)
– 文字コード自動判定
がありがたい。
その他、ショートカットキー、行番号表示、カーソル位置の保存などなど、機能が充実している。まだ使っていないが、別ソフトでGrepも用意されている。これだけ揃ってると、もっとあれも、これも、と高望みをしてしまうほどだ。実は希望したい機能もある。要望にもビビッドに対応してくれそうなので、伝えてみたい。
しばらくはこれメインで原稿を書いてみよう。
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五体のマエチン
- 2011-08-02 (火)
- 日記
(昨日の続き)
おはようございます~
代表、さわやかな笑顔
五体の新しい丁稚、くり坊のストレッチ
このくり坊のストレッチを見に行った……
のではなく、五体のマエチンに会いに行ったのです。
いやあ、びっくりしました~
ここまでとは。
生の「そうっすね」が、ここまで面白いとは。
いやそうではなく、治療後に黙々と自分の感覚を確かめながらのトレーニング。
この積み重ねがマエチンなんですね~
その「誠実」な姿に感動致しました。
『左重心で運動能力は劇的に上がる! 』(宝島社新書)のあとがきに書いてある、
結局はトップアスリートほど、こうした地味なトレーニングを大切にしているんです。
というのを生で見せて頂きました。
こういう誠実な姿が日本代表FWを作っているんですねえ。
すばらしい。
記念撮影。左端が五体の新しい丁稚、くり坊。
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