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中森康之ブログ

Skypeで

Skypeで初めて研究打ち合わせを行った。
やはり映像があるのはいい。

ちょっと(本)見せて。
こんな本です。

てな具合で見ることができるからである。相手の顔を見られるのもいい。

実際に会った方がいいに決まっているが、それが出来ない場合にはとてもいいように思う。

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竹ピンセット

頂いた新しい香炉。

前のより深くて狭い。

今までは不調法にも、灰の上にお香(線香)を手で置いていたが、これを機に竹ピンセットを購入。

早速使用を開始した。

いい感じです。

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MacでWZeditor

最近すっかりMacづいているが、完全移行にはいくつかクリアしないといけないことがある。
一つは、editorである。周りで使っているという人を知らないが、私は論文などの文章を書くときは、WZeditorというソフトを使っている。DOS時代のVZeditorからの愛用である。実はそのほとんどの機能を使えていないのであるが、それでもこれだけはないと困るという機能がある。例えばアウトライン、脚注、画面分割などである。

ところがMacでは、なかなかこれらの機能を兼ね備えたeditorが見つからない。随分探したけれども結局見つからなかった(どなたかご存じの方がおられたら是非ご教示願いたい)。少しずつ慣れれば、なんとか使えそうなアウトラインプロセッサとeditorはあるが、今書いている原稿では使えそうにない。

そこで結局どうしたか?

MacでWZeditorを動かすことにしたのである。できればこれは避けたかったのだが、もう仕方ない。ということで、現在無事MacでWZeditorが動いています。

Mac移行のもう一つの問題はキーボード。私はMacBook Airのキーボードはそれほど嫌いではないが、ついでだから、愛用のRealforceを接続してみた。もちろん使えないキーもあるが、今のところそれほど問題なく使えている。

モニターにも繋いで、しばしデスクトップ気分であるが、もちろんこれは一時的なものである。やはりMacBook Airは「素」で使いたいからである。

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慰労会&お誕生会

研究室の学生が、初めての論文&学会発表にチャレンジしている。
この2ヶ月ほど苦しい思いをしながらようやく完成した。
そこで、慰労会を開催。

私の誕生日プレゼント券が送られてきたお店へ。

これで彼らは一旦開放される…はずが、
実は昨日締め切りだったはずが、投稿しようとしたら締め切りが2週間ほど伸びていたらしい。一昨日確認したときは何も書いてなかったんですけどね。
しかしせっかく2週間も頂いたのであるから、更によいものにすべく、あと2週間ほど苦しんでもらうことになりました。

という訳で、慰労会は激励会へと変更になったのでありました。

これを天の恵みと言わずして何と言おうか。

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我骨髄より油をいだす

芭蕉は門人許六にこう言ったという。

いつとてもたれたれと俳諧するは、かやうの事と容易におもふ事なかれ。真ンに俳諧を伝える時は、我骨髄より油をいだす。かならずあだにも思ふ事なかれ。(『俳諧問答』「俳諧自讃之論」)

いつでも誰とでも同じように俳諧をする訳ではない。他の人とも、あなたと同じようにやっていると安易に考えてはいけない。特別な人にほんとうに俳諧を伝えようとしたときは、私は骨髄から油を絞りだすのだ、それを絶対にいいかげんに考えるなよ、というのである。

自分が特別な存在であったと言いたい許六の気持ちはここではおいておいて、おそらく芭蕉にはこのようなことがあったのだろう。もっともほとんどの弟子は、その芭蕉の覚悟をきちんと受け止めることはできなかった。師の骨髄より油を出す覚悟の教えを真正面から受け止めるには、自分も骨髄より油を出す覚悟で相対するほかないからである。

結局ほとんどの弟子は、師の変化についていけず脱落していったのであった。

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かめせん

師匠思いの絵実子さんからこんなものを頂きました。

何これ?

かめせん??

そう、かめせん しお味 です。


イェーイ!

うわっ、師匠~


イェーイ!

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日本文化論終了

日本文化論も終了した。
この授業は学生の価値観を相対化する内容なので、学生の抵抗もかなり大きい。今年度の受講生は約300人。この人数相手にアウェー戦である。

それでも、毎年、極端に反感をもつ学生も何人かいるものの、私の話を深く受け止めてくれる学生も何人かいるので、やりがいがある。「授業の説明は私の知っている武道と全く違う。先生には武道の授業は無理だ」とアンケートに書かれたこともあるし、パワーポイントのスライドの使い方に関して、「手抜きだ。自分たちは授業料を払っていて、先生は給料をもらっているのだから、手を抜かずに準備すべきだ」と書かれたこともある。どうもその学生が考えている「正しい」使い方をしていなかったことが逆鱗に触れたらしい。大事なポイントが箇条書きにされていない、文字が黒だけである、などと具体的なご教示も頂いたので。

こういう学生のためには、大学院の授業、特にこの授業は、みなさんの価値観を相対化する授業です、頭で理解しようとすると凄く難しいですよ、自分が正しいと信じていることがほんとうに正しいかをきちんと問い直すことも大切ですよ、などというお話をしている。ちなみに、この前同じような学生についての記事を読んだ(東京大学には入ったけれど・・・ああ無常 人生の失敗を始める頭の”良すぎる”学生たち) 

しかし、その一方で、この授業を受けてよかったとか、全ての学生に聞かせたい、とか、工学部の学生にとってとても意味がある、とかいろいろ書いてくれる学生もいる。

今年もいろいろ書いてくれるだろうけど、今の段階の感じでは、ちょっと苦戦したかも知れない。しかしそれはそれでよい。

ただ来年度からは、少し語り口を変えよう。挑発しても学生の理解が深まる訳ではないようになってきたからである。来年度は、よい空気感で、お互いの理解が深まるような語り口に変えようと思う。うまくいけばテキストも使えるはずだし。いや、きっと間に合うはず。そうすれば、来年度はテキストを使いながら、お互いが気持ちよく理解を深めていけるはずである。

それ以外の授業も全て終了した。
あとは期末テストを残すのみである。

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ステンレスエコカップ

カップを購入。

初代iPodの鏡面加工の研磨技術が生かされているという。
「発泡酒もビールのようになる泡」と紹介されていた。

きっと美味しいに違いない。
問題は、わたくしがビールが飲めないことだけである。

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日本文化特論(博士後期課程)終了

26日。
前期の日本文化特論(博士後期課程)が終了。
旧カリの学生(つまり建築を専攻していない学生)が2人と、建築の学生が1人の3人。テキストは『木のいのち、木のこころ』。

8割以上が雑談だった。毎時間、時間超過をして熱く語り続けた。もちろん学生も語ってくれた。いつも授業が終わってから、「これでいいのかぁ???」と不安になっていたが、今日、20分オーバーして授業が終わった後、1人の学生が、「かなり面白い授業でした。先生の他の授業にも出たい」と言ってくれた。他の学生も静かに頷いてくれたように感じた。涙が出るほど嬉しかった。

雑談だけで授業を成立させたいというのがかねてからの私の夢であった。ドクターの学生で、しかも非常に感度のいい学生ばかりだったということ、西岡棟梁や小川師匠がそれだけで素晴らしい存在だということに助けられながらではあるが、今回、それがだいぶできたように思う。

国文学1では自分(教師)の存在をほとんど消せたし、日本文化特論では雑談で授業を成立させられた。わたしくし、ちょっとレベルアップしたかも…。

とうぬぼれてはいられない授業が明日ある。がそんなことは気にしないで、うまくいった方を喜んでおこう。幸せ、幸せ。

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国文学1終了

前期の国文学1が終了。

朝の挨拶で、建築の学生が、設計課題やら学生コンペやらいろいろ忙しいという話をしたので、それも大切だけど、そんなことより、学生は「建築とは何か」「設計とは何か」「自分はなぜ建築の仕事をしたいのか」「自分の仕事の本質とは何か」等々、先人の知恵(本や現物など)を借りながら、じっくりゆっくり考える時間が大切であると話した。学生はアウトプットばかりしてないでインプット、つまり勉強すべしと。
ペーター・ツムトアもこう述べている。

私たちは、建築の歴史は自分の設計にはなんの影響もない、一般教養だと思っていた。そんなわけで、私たちはすでに創造されていたものを創造し、創造不可能なものを創造しようと躍起になっていたのだ。……しかし遅くとも建築家として実務に就く頃までには、建築の歴史に蓄えられた膨大な知識と経験を学んでおくほうがよいだろう。(『建築を考える』(鈴木仁子訳 みすず書房 2012年)23頁)

建築史は自分の設計の仕事には何の影響も与えない一般教養だと思っていた、しかし今はそうは考えない、「実務に就く頃までには」それをしっかり勉強しておいた方がいい、そう述べているのである。「実務に就く頃までに」、つまり学生時代に、である。

それをせずコンペやら何やらに忙殺されるのは、スポーツ選手が、じっくり実力を養う練習をせずに、試合ばかりをしているようなものである。もちろん試合は楽しいし、それによって学ぶものもある。それでしか学べないこともある。が、それだけでは長い目で見たとき、ほんとうに高いレベルにまで到達することが出来ないのではないだろうか。

「ほんとうに高いレベル」というのは、自分の全存在をかけることが出来るレベルである。自分の全存在をかけて生んでこそ、はじめて創造の域に達する。それが個性となるし、それまでの流れを変え、全く新しい価値観の提示ともなる。一所懸命というのとは全く違う。「ものをつくる」というのはそういうレベルでの話であるということが、初めから実践ばかりやっている人にはなかなか実感できないのである。

試合ばかりに出ていても、ある程度の才能があればそのリーグの中で一番になることはできるかも知れない。しかし、そのリーグ自体の意味、方向性の是非を問うことが難しい。そこで一番になることだけを目指していると、そこで通用している価値観自体を問うことが難しいのである。そういう仕事は空虚である。

誰かが指し示し、多くの人が目指している方向にむかって、一番前を走ることは出来ても、走る方向が変わればとたんに精彩を欠き、まして自分で新しい方向性を生み出すことができなくなってしまう。これでは「回転木馬のデッドヒート」である。「回転木馬のデッドヒート」は、充実感を生むが、真の意味での幸福感を生むことはできない。どこにも到達しないし、何も創造しないからである。

建築史が教えてくれるのは、建築の本質である。つまり、建築とは何か、建築は誰のためにあるのか等々であり、自分が建築に関わることの意味である。しかし、ツムトアが言うように、「実務」に就いてからではそれをゆっくり学んでいる余裕がなかなかない。だから、学生時代にそれをゆっくり、じっくり学ぶことがとても大切なのである。

これは何も建築に限ったことではない。他の専門の学生も同じである。自分がそれをやることの意味をよく考えることをはじめ、学生時代にしかできないことを学生時代にやるべきである。

こういう話をすると、大抵は鼻で笑われるか、「むかつく」と言われるのだが、この授業の受講生は、「まともな意見だ」と言ってくれた。そういう変な?(私から見ればまっとうな)学生が集まってくれた授業だった。とても楽しかった。学生に感謝、感謝である。

ちなみに最後の授業は、吉本ばななの『アルゼンチンババア』、小林秀雄と岡潔の『人間の建設』。国文学の授業で、学生とアインシュタインについて議論するとは、昔は思ってもみなかったが、これまた楽し。

最後は「人間にとって建設とは何か」(建築分野ではなく何かを作ること一般)についての議論。「ものづくり」というけれども、ものをつくるとは本質的にどういうことなのか。ものづくりに関わっているみなさんは、このことについてよく考えたことがあるのか?と問う。
発表者が、「この本には「人間は本質的に建設はできない」と書いてあったと述べたので、それを問うたのである。

学生のみなさん、もっともっと青臭い議論をしましょう!

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