中森康之ブログ
平田オリザさん講演会
11月28日。平田オリザさんの講演会「新しい広場を作る」に武道部員と行く。
都市計画、市場原理、文化の地方格差、文化施策、広場・劇場とは何か、誰かが誰かを知っているゆるやかなネットワーク社会、文化による社会包摂(Social inclusion)等々について話された。『芸術立国論』(集英社新書)と重なる話題もあり、非常に面白かった。
経済活動(市場原理)からは一見無駄に見えるけれども、社会にとって必要な時間と空間が無意識のセーフティーネットを作ることや、このまま市場原理にまかせていると、文化格差が広がる一方であり、文化施策なしに資本力だけに頼っていると、弱者の居場所がなくなるという指摘。その通り、重層性のない社会は生きがたいと私も思う。
質問コーナーもあり、ニシクボくんが現代の大学のありかたについて質問した。
オリザさんは「大学が本当に国際競争力を持ちたければ、文化、芸術が必要である」と答えられた。ありがとうございます。「世界のトップは発想を競うことを、先端の人ほど分かっている」「それが分かっていなければ、世界の30位には入れても、トップ10には入れないだろう」。もちろんこれは工学部や医学部などの話である。
世界の国立大学にあって、日本の国立大学にないものは二つ、教会と劇場であると指摘された。前にもアメリカの大学に勤めていた知人から、「日本の大学のキャンパスにはホールがない(その時は教会の話は出なかった)」という話を聞いて、共感した覚えがある。
この話を聞いて、大学生らしき聴衆が、質問した。
大学の予算は限られており、劇場などに予算を使ってもらえるのでしょうか?
日本の大学は予算が厳しく、他に優先されるべきものがあるのであって、劇場などにお金を使う余裕はないのではないか?というのである。彼がそれを是としているのか、現状を嘆いているのかはっきりとは分からなかったが。
じゃあ、なんで大学にプールがあるんですか? プールより劇場の方が大切だと思いますけど。
とオリザさんは答えられた。
また、ある中高一貫のエリート校の話をされた。海外の名門校を真似て作ったそのエリート校は、モデルとした学校とそっくりにした。最後に向こうから逆視察にやってきた方がこう言われた。
完璧だ。だが、たった一つだけないものがある。劇場だ。
非常に象徴的な話である。
終了後、いつもの如く感想会。
いろいろ面白い話がでたが、今回は、マスター(修士)の二人が素晴らしい感想を述べていた。とくにオノくんは最近自己を揺さぶられる経験をしばしばしているが、今回も、オリザさんの言葉を真正面から真摯に受け止め、自分のこれからの人生、技術者としての生き方の問題としていろいろ語ってくれた。
それはそうである。彼ら学生は、最先端の技術者をめざして日々研究をしているのである。そしてそうであるならば芸術、文化、文学の素養と感性が不可欠であると言われたのである。もちろん普段から私も言っているが、私の言葉なら軽く流せていても、平田オリザさんの言葉はそうは行かないだろう。しかもそれがこれからの日本の社会と結びつけて語られたのであるから、自分が技術者として目指している「幸せな社会」とそれがどう関係するかを考えなければ嘘である。
講演、そして感想会に出た武道部員の今後が楽しみである。
(講演内容は、私の拙い記憶をもとにしていますので、誤りがあるかも知れません。誤りは全て私の責任です)。
久しぶり……
- 2011-11-27 (日)
- 日記
久しぶりに五体へ。といっても三日ぶり。
ども、代表です。
ども、代表です。
こんちは。代表です。
さて、とても気持ちよさそうな方が。
つい添い寝を。
やさしく受け入れてくれました。
ちょっと陽気なくり坊。
新しい丁稚もトレーニング。
丁稚二人でツーショット。
しかし、治療が始まるとそんな余裕はどこへやら。
くり坊撃沈。
この方も悶絶。
タワーさんは立ったまま……。
代表から新しい丁稚にプレゼントが贈られました。
五体の代表……って
- 2011-11-25 (金)
- 日記
ども、代表です。
ども、代表です。
あっ、あの足はひょとして……
やっぱり代表の足。
その横で寝てるのも、代表。五体でなく日本の……。
誰も相手してあげないから、その日本代表をどかせて、一人でごろごろ遊んでいます。
それを見ていたえみこさんが参加。
新しい丁稚も参加。
ちょっと違う???
おっ、できた!
ひとりで暴走するえみこさん。
遊び疲れた代表は、寝てしまいました。
五体でマエチン
- 2011-11-24 (木)
- 日記
またまた五体へマエチンに会いにゆく。
無理を言って、タジキスタン戦のゴールシーンを動画を見ながら解説してもらった。
DVDがギリギリ間に合わなかったくり坊は、色紙を取り出す。
3人でニャー……。
くり坊につづく五体の新しい丁稚もツーショット。
私はトニーと。
その後、いろいろありましたが、それはまた明日。
第18回黒帯の稽古会
11月20日。第18回黒帯の稽古会。
テーマは毎度幹事さんから出されるが、今回は「形のつながり」。場所は豊橋。
黒帯の稽古会は、真剣な稽古会であるが、いろいろ遊ぶことも多い。
今回もいろいろ遊んだ。
秘技「ジェットコースターのばあ~」
秘技「彼方まで走っておゆき」
イワサキくんもとっておきの秘技「凧」を披露。
大きく胸を広げて、天から吊り下げられるように……
しかしまだ未完成なので、お手伝いが必要でした。やさしい裕子さんがお手伝い。
ここから一気にアップ!
もうちょっとで飛べるかぁ~?
力尽きたようです。
今回もゲスト参加。
サンドバックの向こうで、突然四股立ち。
「この構えを見て隙があったら、どっからでもかかってこんかぁ~」
さすがにその後のおきまりのギャグはありませんでした。
秘技「あさがお」
もちろん黒帯の稽古会は、遊んでばかりではありません。
まじめな稽古会です。
今回もとてもいい稽古会でした。
幹事さんお世話になりました。
終了後はいつもの通り懇親会。
また明日からみなさんお仕事頑張って下さいね。
日本のロックを批評するということ
19日夜。
昨日の日本文学のシンポジウムの前に竹田師匠と喋っていたら、
中森くん、この後の加藤さんのも来るの?
加藤さんとのって、何ですか?
この後、加藤さんとトークセッションあるんだよ。
ええ〜っ? そんなんあるって知らんかった〜。行きます、行きます。
ということで、竹田師匠についていった。こういうこともあろうかと、新幹線の予約を最終にしておいてよかった。
ということで、ジュンク堂池袋店に着きました。
加藤典洋『耳をふさいで、歌を聴く』(アルテスパブリッシング)刊行記念
「日本のロックを批評するということ」
加藤典洋 × 竹田青嗣
前にこのブログにも書いたが、加藤さんは私の恩人である。なぜ私が救われたかといえば、加藤さんが文学の力、批評の本質を教えてくださったからである。それが今日も遺憾なく発揮されていた。もう1時間半中、興奮し続けた。
批評とは何か?
音楽とは何か?
音楽を批評することの本質は何か?
トークセッションの前は、私は軽く考えていた。文芸批評家である加藤さんが、対象を文学ではなく音楽にかえた評論だと。しかし全然違った。文学を批評することと、音楽を批評することとは全く違うことだ、と加藤さんは何度も繰り返された。なるほど、そういうことだったのか。
いつもながらの独特の比喩満載で、とても面白いトークセッションだった。竹田師匠も生き生きしていた。
最後の方で加藤さんはこういうことを言われた。だいぶ前に「他者」について書かれたときにも同様のことを書いておられたと思う。
命がけで努力して、工夫して、もうこれ以上できないというところまで作り上げた作品。それに対して誰かに、これもそれまでの人生をかけ、命をかけて、「お前の作品なんて全然たいした事ないぜ」と言われる。そういうことがあって初めて、次の段階に行けるのである。
私もついこの間、そういう経験をした。ごく限られた字数(たしか1000字くらいだったかな)の中で、もうこれ以上書けないというレベルまで書いて出した原稿に対して、編集者が、もうちょっとこの情報も入れてね、と言ってきた。いくらなんでもそれは無理ですう〜 と思ったが、仕方ないので全部書き直した。字数一杯まで書いていたので、20文字入れるだけでも、全部書き直さないと入らないのである。
しかし書き直した原稿を見ると、明らかに修正版の方がよかった。最初の原稿も精一杯努力したはずなのだが、やはり「他者」からそれを指摘されることがとても重要なのである。もちろん私はそのことも前から知っていたので、最初の原稿を出すときに、もう何を言ってきても無理だよ〜、っと思って出したのであった。しかし、言われてやってみたら、やっぱりできた。
人間とはそういうものなのだろう。
ということは、自分の精一杯に対して、「お前なんて全然だめだよ」と全存在をかけて言ってくれる人がいるということがとても幸せなことなのである。それは友人であったり、師匠であったり、いろいろである。
日本文学協会第66回大会
日本文学協会第66回大会・国語教育の部
テーマ 〈文脈〉を掘り起こすーポスト・モダンと文学教育の課題ー
シンポジウム
於・東京大学
報告者・川嶋一枝氏・大谷哲氏・竹田青嗣氏
昨年の西研さんに続き、今年は竹田師匠の登場である。
この二人が日文協に呼ばれることについては、個人的に非常に感慨深いところがある。このシンポジウムでも川島氏と大谷氏によってしばしば口にされた「80年代問題」。その80年代、私は院生だった。当時ポストモダン思想が大流行しており、竹田師匠や西さんの話を私がしても誰も聞いてくれなかった。時代遅れの思想だと思われたのである。
しかしポストモダン思想が文学研究にあのような形で導入され流行してゆけば、やがて文学研究や文学教育は死んでしまうことは明らかであった。何より、研究者自身、教育者自身が矛盾を抱えて行き場を失ってしまう。
当時そのことを同じ院生の知り合いにも訴えたが、彼は親切に、
その方法を使えば論文を載せてくれるのに、使わないのはバカだ。
と教えて下さった。
ああ、そうですか。すみません。
でも、ようやくその問題を、「ポスト・ポストモダン」なる語で考え始めてくれたようである。嬉しい。
さて、前半はそれぞれによる基調講演。
川嶋一枝氏・「〈語り得ぬもの〉がある」と語るー「三月記」の教室からー
大谷哲氏・文学研究の「八〇年問題」と〈読み〉のグランドセオリー
竹田青嗣・批評のテーブルと事そのもの
川嶋氏、大谷氏の報告は、非常に真摯に研究、実践をされていることがよく伝わってきた。そして、竹田師匠との違いも明確であった。
竹田師匠は、例によって、だんだんのってきて、肝心の「事そのもの」についてはほとんど話す時間がなかった。しかし、文芸評論の核、文学研究、文学教育の核はきちんと示された。その中で、「作品の力」という言葉を使われた。この言葉は両氏と竹田師匠の違いを非常にクリアにすると思い、質問した。答えは予想した通りだった。
後半の討論会も、いろいろな話が出て面白かった。「国語教育の意味は?」というような本質的な質問にも、竹田師匠は、明確かつシンプルに答えられた。
全体を通して、竹田文芸批評原理が久しぶりに聞けて大変嬉しいシンポジウムだった。
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