おお、みんな頑張ってるなあ、討論を聞いてい てそう思った。本学に赴任してまだ一年にも満たない私としては、本学の学生たちが、討論をどのように成立させるのか、正直、非常に興味があったのである。 授業では見られない学生の姿が見られるからだ。
討論はほとんど途切れる事なく、多くのリー ダー(候補生)たちの積極的な発言によって進んでいた。授業でここまで積極的な発言を引き出すのはかなり難しい。これは自分の反省。
しかしながら私が、頑張っていると感じたと は、発言が途切れることなく続いたからではない。そこで語られていた言葉が生きていたからである。
実は、空虚な言葉なら、人はいくらでも出せ る。空虚な言葉とは、自分の経験に根ざさない、自分自身に向き合っていない言葉のことだ。そのような言葉なら、人はいくらでも出すことができるのである。 だから、積極的な発言が続くこと自体は、いい場合もあれば悪い場合もある。また、実際に発言が途切れることがなかったというのも、本当は正確ではない。あ る時は、沈黙が続いた。しかし、自分自身の経験に問いかけ、他人の経験に興味をもち、他人の話を聞き、それをまた自分自身に聞き返すという、ある種の緊張 した時空が途切れることはなかった。それは言える。そこにあるのは、たどたとしくはあるけど、充実したことばであった。わたしが頑張っていると感じたの は、そのことである。
こういう経験こそが、彼らをリーダー足らしめ る非常に大きい要因だと私は思った。リーダーというのは、普通の人には見えないものが見えていないといけない。見えないものがどれだけ見えているかが、 リーダーとしての力量である。それはマニュアルを求める心には決して備わることはない。
ちなみに、私は欲求不満だった。こういう時空 の中で、私も自分の言葉をぶつけたかったからである。見てるだけなんて、勿体な過ぎる。しかし私は、教員であって、サークルリーダ(候補生)ではなかった ので、それは叶わなかった。
授業を工夫し、教育というものをまじめに考え ているほど、大学教育の中心が授業にあると思いこんでしまうそうだ。私もどれだけまじめな?教員であるか知らないが、自分の学生時代のことを棚に上げて、 知らず知らずのうちにそう思いこんでいたのかもしれない。今回改めて考えさせられた。
最後にひとこと。教員とか学生とか、ケチ臭い こといわずに、俺も討論に参加させろ!最後に偉そうにコメントする役ではなく、討論の一員として。
あっ、でもそれだとサークルリーダズ研修会に ならないのかもね。