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日記 アーカイブ

しばらくはこれメインで原稿を書くはずが……

つい先日、「しばらくはこれメインで原稿を書いてみよう」と宣言したLifeTouch NOTE。実は初期不良でした(T T)。
音が出ない。
今から思えば、届いた時から出ていなかったが、音楽も動画も再生しなかったので、別に意識していなかった。金曜日に、「孫正義×堀義人 トコトン議論 ~日本のエネルギー政策を考える~」の生中継を見ようとして発覚。音が出ない。おまけに念のため持って帰っていたノートPCでもうまく再生できず断念。もっともトコトン議論の方は昨日全部見た。

さて、仕方ないので月曜日を待ってサポートに電話。結局引き取り修理をしてもらうことに。
原稿書く用のマシンだから音がでなくてもいいんだけど、たまに上記のようなことがあると困るので修理してもらおう。

久しぶりにNECのマシンを買ったのだが、とても残念。
はやく戻ってきてね~

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渡辺敦雄先生講演会in湖西市

8月6日。
湖西での渡辺敦雄先生の講演会に行った。6月3日に本学で開催した講演会に来て下さっていた湖西市長夫人の主催されている会での講演である。6月仕事でどうしても来られなかったくり坊を連れて行く。

演題は「福島第一原子力発電所と浜岡原発」。

待ち合わせ場所の鷲津駅を確認してから喫茶店を探す。
おっ、ありました。
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喫茶店というより、喫茶のあるケーキ屋さんでした。せっかくだからケーキも注文。

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器も味もgood。
WiMAXがはいらなかったことだけが残念。

さて、約束の時間の少し前に鷲津駅へ。
市長と市長夫人はすでに到着されていた。ほどなく渡辺先生も約束より1本前の電車で到着。
約束の15分くらい前には全員集合してしまった。

講演前に懇談会。

その後講演会場へ。会場でもしばし懇談。いざ講演会。
バージョンアップしていて、いい講演会だった。
質疑応答も活発。
それにしても渡辺先生の質疑応答能力にはいつも驚かされる。なぜあの質問が理解できるのだろうか、という質問に的確に回答される。お見事という他ない。

講演会終了後、市長は次の予定へ。市長さんは大変ですね。
市長夫人としばし懇談。阪神淡路大震災のときには神戸に住んでおられたという話をお聞きし、縁を感じる。私が学生時代住んでいた場所の近くだった。

しばし歓談後、渡辺先生を鷲津駅にお送りし、一路豊橋へ。尚志館には間に合わない時間だったので、夕食場所に直行。6時半前に尚志館組が集合していつもどおりの土曜日となった。

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it珈琲

昨日芭蕉の「日々より月々年々の修行ならでは」について書いた。
この言葉には、長い長い修行は、一日一日のしかも小さいことの積み重ねでしかないというニュアンスが込められている。

「長年修行しないと」というのと、「毎日の修行に始まって、それが毎月毎月の修行となり、それが積み重なって毎年毎年の修行となる。それなしには」というのとではだいぶニュアンスが違うだろう。

「日々」の修行には「時々」の修行がある。「時々」の修行には「分々」の修行がある。こうやって限りなく細分化されてゆく。これがどれくらい細分化できるかが、その人の修行のレベルを表しているのである。年単位で時間を考えている人と、秒単位で体感している人とでは、内的な時間感覚がまるで違う。そしてこれが細分化されつくしたとき、切れめはなくなる。「分別」はなくなり、流れのなめらかな連続となる。「無」となるのである。

このブログでもしばしばご登場いただく阿波研造師範に次のようなエピソードがある。「彼」というのが阿波師範である。

その頃、ある日のこと、私が一射すると、師範は丁重にお辞儀をして稽古を中断させた。私が面食らって彼をまじまじと見ていると、「今し方“それ”が射ました」と彼は叫んだのであった。やっと彼のいう意味がのみ込めた時、私は急にこみ上げてくる嬉しさを抑えることができなかった。
「私がいったことは」と師範はたしなめた、「賛辞ではなくて断定に過ぎんのです。それはあなたに関係があってはならぬみのです。また私はあなたに向かってお辞儀したのでもありません、というのはあなたはこの射には全く責任がないからです。この射ではあなたは完全に自己を忘れ、無心になって一杯に引き絞り、満を持していました。その時射は熟した果物のようにあなたから落ちたのです。さあ何でもなかったように稽古を続けなさい。」(オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』福村出版94頁)

術のない術とは、完全に無我となり、我を没することである。あなたがまったく無になる、ということが、ひとりでに起これば、その時あなたは正しい射方ができるようになる。(同『日本の弓術』岩波文庫30頁)

時間の細分化も空間の細分化も主客の細分化も同じである。細分化されつくしたところに「無分別」が現前するという逆説がある。

「“それ”が淹れました」。この境地に至るべく私は毎日珈琲を淹れている。名付けて「it珈琲」(IT(アイ・ティー)ではありませんよ~)。
ここ数日、「お湯をのせる」感覚に変化があった。日々の修行の楽しみは、たまに、そして唐突にやってくるその微々たる変化を待ち、そしてやってきたら機を逸することなくつかまえることにあるのかも知れない。

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LifeTouch NOTE1~Text Editor

Jota Text EditorというEditorが評判が良かったのでインストールして使っている。
すばらしい。まず、
– 100万文字程度までのテキストファイルに対応(Alphabetで1MBytes/ShiftJISで2MBytes)
– 文字コード自動判定
がありがたい。
その他、ショートカットキー、行番号表示、カーソル位置の保存などなど、機能が充実している。まだ使っていないが、別ソフトでGrepも用意されている。これだけ揃ってると、もっとあれも、これも、と高望みをしてしまうほどだ。実は希望したい機能もある。要望にもビビッドに対応してくれそうなので、伝えてみたい。

しばらくはこれメインで原稿を書いてみよう。

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五体のマエチン

(昨日の続き)

おはようございます~

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代表、さわやかな笑顔

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五体の新しい丁稚、くり坊のストレッチ

このくり坊のストレッチを見に行った……
のではなく、五体のマエチンに会いに行ったのです。
いやあ、びっくりしました~
ここまでとは。
生の「そうっすね」が、ここまで面白いとは。

いやそうではなく、治療後に黙々と自分の感覚を確かめながらのトレーニング。
この積み重ねがマエチンなんですね~
その「誠実」な姿に感動致しました。
『左重心で運動能力は劇的に上がる! 』(宝島社新書)のあとがきに書いてある、

結局はトップアスリートほど、こうした地味なトレーニングを大切にしているんです。

というのを生で見せて頂きました。
こういう誠実な姿が日本代表FWを作っているんですねえ。
すばらしい。

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記念撮影。左端が五体の新しい丁稚、くり坊。

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五体の代表って

昨日(7月31日)は五体治療院へ。
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この人の運転する車で。

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この人も一緒。

しかし五体に到着すると、
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代表は寝ていた……

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猿たちの汐干狩

(これは寓話です)
チンパンジー何人かとボノボ何人かとオラウータン何人かとゴリラ何人かで汐干狩に行きました。

チンパンジーが「ここにいそうや!」といって砂を掘り始めました。
何人かのボノボはチンパンジーがそう言い終わらないうちに一緒に砂を掘り始めました。
ボノボはチンパンジーとほぼ同時に直感し身体が動いたのでしょう。
チンパンジーとボノボはわいわいがやがや、「おっ、いた! あっ、こっちにもいた!」といって楽しそうに掘っています。

オラウータンは一緒に掘っている人もいれば、離れて1人で掘っている人もいます。楽しそうにしているオラウータンもいれば、気難しそうな顔をしているオラウータンもいます。

ゴリラはその様子をちょっと離れて見ていました。そしてチンパンジーやボノボが楽しそうに掘っているのを確認してから、自分もその中に入っていきました。

もっと遠くで見ていた人間は、「そんな所より、もっとあっちの方がいっぱいいるんだよ。いやそこじゃないよ。ああそんな掘り方じゃだめだ。何やってんだよ。ああ、見ちゃいられねえ」と悪口を言いながら、ずっと見ています。

なんかこんな感じですかねえ。ある流れが出来るとき、
新しい流れを作り出す人
その流れと一体化して流れてゆく人
「流れが変わったぞ。こっちか」と確認してからついてゆく人
流れなんてどうでもよくて、自分の行きたいところに行く人
いつでも流れと反対に進む人
あれこれ考えてずっと止まっている人
それを外から見て、批判する人

世の中にはいろんな人がいます。
自分の中にもいろんな自分がいます。
難しいのは、自分がそうでありたいと思っているのと、実際の自分は違うということです。

ちなみに私は子どものころ外で遊んでいて、自分の興味に惹かれてそっちに行ったら、誰も一緒に来てなくて、1人だけ仲間から外れていたことがよくありました。少し大人になってからも、ディスカッションしてても、自分が興味ある話題を振ってもスルーされて、他の話題で盛り上がることもよくありました。
こういうことは今でもよくあります。たぶん。
たぶん、というのは、昔はそういうときショックを受けていましたが、今はそんなことどうでもいいので、いちいちショックを受けません。ですから、そういうことが起こっているのかいないのかさえも定かではないのです。たぶん事実としてはそういうことは今でもあるんだろうなあと思うだけです。でもどうでもいいし。

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憧れ

ある高校の先生からメールが来た。

最近の生徒たちを見ていると、大人に憧れる気持ちがないようです。
日本では子供時代が楽しいというのもあるでしょうが、子供でいたがる気持ちがつよく、青年期に、大人へ成長しようというエネルギーを欠いたまま、静かに過ぎているように思います。

これは私の実感ともよく合っている。
子どもが大人になる契機を奪ったのは大人である。一つは「憧れ」。一つは「価値観」。まずは「憧れ」から。

「はやく大人になりたい」とか、「ああいう大人になりたい」という憧れが子どもたち、若者たちに薄いように、私も感じる。大人にならないと出来ないことが極端に減ったからかも知れないし、魅力的な大人が減ったからかも知れない。まあ、あまりにも幼稚で、疲れ切っている大人に憧れる子どももいないし。もちろん明るく元気で魅力的な大人はたくさんいるんだけど。

そういえば最近やや上昇傾向になったと聞いたが、少し前までは新入社員の出世欲が非常に低いという調査があった。ある新入社員が、疲れ切った上司を見て、10年後の自分の姿をそこに見て絶望した、と言っていたのを聞いたことがある。

憧れが薄ければ「学び」も薄くなる。武道においては、憧れがないと「学び」そのものが成立しない。「あの人のような技を自分もやりたい」「あの人のようになりたい」「あの人の境地に自分も達したい」という憧れだけが、確かな頼りである。目の前の師匠がその境地に達していなくても、かつてその境地に達した先人がいたということが信じられれば十分である。師匠にあこがれ、師匠が憧れている境地に憧れる。師匠への憧れと師匠の憧れへの憧れ、これが日々の稽古を支えるのである。

武道の稽古はしばしば理不尽なこともある。科学的なエビデンスなんてないことがたくさんある。もちろん結果に対する事前の保証などない。ただ自分の憧れる師匠がそうしているから自分もそうするだけである。たまに師匠が「こうしなさい」とおっしゃるからそうするだけである。師匠もまたそうして今の師匠になったのであり、そうする以外に今の師匠はあり得なかったからである。
最初は、護身術とか、喧嘩に強くなりたいとか、いろいろな理由で武道を始める人がいる。それはそれでいい。ずっと続けていると、最初の動機なんてどうでもよくなるからだ。何年も続けていると、師匠が到達した境地に憧れ、師匠が憧れている先人が到達したであろう境地に憧れ、師匠の憧れに憧れる。そのような憧れの構造だけが頼りとなる。

どうもその構造にどっぷりつかると、自分の個性がなくなってしまうとおびえる若い人もいるようだ。自分をまずしっかり保って、自分に足りない点を分析して、それを補強して、というのだろうか。大丈夫。全身全霊で憧れたくらいで、個性なんてなくならないから。そんなに簡単に捨てられるなら誰も苦労はしないのである。
個性と教育の話はまた別の機会に。

閑話休題。
大人が楽しそうに生き生きしている社会でないと、誰も大人になりたいと思わない。
年寄りが生き生きしている社会でないと、誰も歳をとりたいと思わない。
私もあんなお年寄りに早くなりたい。そのために今しっかりがんばらなくっちゃ。
若者にそう思われるような、そしてこのような年寄りになるために自分は今まで歳を重ねてきたのだ、と自分で思えるような年寄りに、私もなりたい。

さて、もう一つの「価値観」。
子どもと大人は違うという価値観は曖昧にしない方がいい。例えば、子どもだからしていいこと、悪いこと、大人だからしていいこと悪いこと、最低限の違いはなくてはいけない。
子どもは早く寝るものなのである。
当然子どもの方が不自由である。しかし不自由感がないところで、「自由になりたい」という欲望は強くはならない。やや過度くらいの適度な不自由感が、人間の欲望を鍛えるからである。

言葉も同じ。言葉ほど便利なものはないが、言葉ほど不自由なものもない。しかしその不自由さこそが、コミュニケーションへの欲望を強くするのである。

またまた話を戻そう。
吉田松陰ゆかりの明倫館小学校(山口県萩市)の卒業生によると、入学したての一年生のとき、松蔭の次の歌をクラス全員が暗唱させられたという。

今日よりぞ幼心を打ち捨てて人と成りにし道を踏めかし

もうあなたは幼子じゃないんだよ。これからは「人間」になるための道をしっかり歩んでゆくんだぞ!

ここにはしっかりとした価値観が表明されている。
それにしても入学したてのぴかぴかの一年生に、毎朝これを唱えさせる小学校って、いいですねえ。
今でもやってるのかしら。

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職人と技術者

西窪くんと「職人」と「技術者」について雑談。
「技術者」にも「職人」にもいろいろいるのに、話しているとどうしても、俗流(だめ)「技術者」と、超一流「職人」の話になってしまう。多分わたしたちには、超一流の職人さんに対する憧れがあるのだろう。そしてそういう人たちは、自分を大工だとか職人とは言うが、技術者とは言わないからである。念のためにことわっておきたいが、優れた一流、超一流の技術者が沢山いることはよく存じ上げている。ただ、

あの人は職人的な技術者だねえ

というのは聞いたことがあっても、

あの人は技術者的な職人だねえ

というのは聞いたことがない。プログラマーの世界でも、「職人的プログラマー」と言ったりするという。この時の、「職人」という言葉には、あるニュアンスが含まれている。それは、例えば、その人のコードはとても美しい、とか、その突き詰め方が尋常でないなどいろいろあるが、一言でいえば、「その人にしか書けない」ということである。

その人にしか出来ないことが出来る人を私たちは「職人」と呼ぶ(もっともそれが何でもいいという訳ではないが)。この場合は、優れているかどうかは本来はどうでもいい。一般的には優れた技術をイメージすることが多いだけである。

西窪くんは、「技術者は技術の所有者」だと言った。面白い言い方だと思った。そう言うとき、「技術」と「人」は切り離されている。そして重点が置かれているのは「人」ではなく、「技術」である。この「技術」は「人」と切り離されているので、所有者は変更可能だ。したがって、誰でも身に付けられる普遍性を持つ。

一方で、私たちが「職人」というときは、その人がもつ「技術」と一体になっている人を指す。ここでは、「人」と「技術」は切り離せない。つまり、「その人でないと持てない技術を身体に宿している人」を職人と呼んでいるのである。決して技術を「所有」しているのではない。

だから、ある職人さんが亡くなったら、その技術も一緒に亡くなるのである。

前に、俗流「科学的」思考はリスクも責任もとらない、と書いたことがある。「技術者」というときも同じである。例えば、俗流「技術者」は、不可能な局面で、「今の技術ではこれは出来ない」というだろう。しかし「職人」は、「私にはこれは出来ない」というだろう。「今の技術では不可能です」というとき、その人に責任もリスクもない。「技術」がまだそこまで発達していないのだから。しかし、「私には不可能です」という人は、全てのリスクと責任を負っている。「私には不可能」というときは、「他の職人さんなら出来るかも知れない」という可能性を必ず含んでいる。そしてほんとうにそれが出来る職人さんが他にいたら、その人は信用も仕事も失うかも知れないのである。

逆も場合も同じである。確かな「科学的な」根拠もなく、保証もない場面で決断しなければならないとき(ほとんどの重大な決断はそうなのであるが)、その決断を自分の経験も勘も含めて、人生の全てをかけて決断する。私は自分でリスクと責任をとって、自分のもつ能力(技術)に徹底的に誠実に生きている人間が大好きであり、非常に尊敬している。そういう人といるととても元気になるし、生きる力が湧いてくるからである。
私は高度な技術者を養成することを使命とする大学で教育をしている。できればリスクと責任をとり、その人にしかできないことができる「職人的な技術者」になってほしいと願っている。もちろんそれは何も特別優れている必要はない。その人にしかできない、そしてそれとほぼ同義であるが、自分自身(=自分の技術)に徹底的に誠実である、ということが肝要なのである。

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学びの機会損失

康樹くんがtwitterに「機会損失」の話を書いていた。ビジネス用語である。
マネー辞典というサイトにこう書いてある。

費用概念の一つ。実際に取引を行い発生した費用ではなく、最善の決定をしなかったがために、利益を得る機会を逃した場合の費用概念のこと。
機会損失の原因となるものとしては、例えば在庫切れがある。これは、買い需要があるにも関わらず、売り手側が最善の決定をしなかったがために取引が成立せず、売り上げが減少したことから、機会損失の例となりえる。

学びにおいては売り手は学ぶ側である。逆ではない。だって、学び損なった場合に損をするのは学ぶ側であって、教える側ではないから。
学ぶ側は授業料を払い、教える側はそれによって報酬を得ることも多いが、それは学びの本質ではない。現代における学びの形態、つまりビジネスの話である。ビジネスになっていないところから、つまり授業以外のところから、人は大事なことのほとんどを学ぶ。

学びの本質はあくまで、学ぶ側がそのchanceを自分のものにすることである。学びのchanceはどこにでも転がっている。自分でそれに巡り合うために行くこともできる。そしてその機会を損失するのもまた学ぶ側なのである。
いつでも在庫を切らしている人は、「よい学び」の機会損失を繰り返す他ないのである。

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