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日記 アーカイブ
山田ズーニーさんワークショップ「「想いを伝えるチカラ」
- 2010-07-26 (月)
- 日記
7月26日。
山田ズーニーさんのワークショップ「想いを伝えるチカラ」(新宿紀伊國屋ホール)に行ってきた。筑摩書房からのメルマガが来て、見て、すぐ電話したら、なんと残席2。その場で予約。
ズーニーさんの『あなたの話はなぜ通じないのか』はここ数年授業のテキストとして使っているが、ご本人にお会いしたことはない。どんな人だろうという楽しみと、300人でのワークショップをどう捌くのかという楽しみと、いろいろワクワクして行った。
最初の40分ほどは講演。舞台に登場されたズーニーさんは、私が思っていたイメージとはちょっと違った。恥ずかしながら、もうすっかりこういうのには慣れておられて、自信満々でやられるのかと何となく思ってしまっていた。しかし目の前のズーニーさんは、この場でも必死で戦っておられるように見えた。人に思いを伝えることの難しさを今でも真摯に受け止めておられるのである。そういう人であればこそ、ああいう本が書けるということくらい分かるはずなのに、なんたる不覚。ほんと恥ずかしい。
その後はワークショップ。これも非常によく練られていた。進めていくうちに自ずと自分自身の「根本思想」に触れるような道筋が用意されている。
3時間半があっという間に過ぎた。私は成り行きで、舞台上の真ん中に座っていた(かなり目立ってしまったと思う)。そこから客席を見ると、会場中が一体となっている感じが非常に強く伝わってくる。全員の気がこちらに向かっているのである(もちろん私ではなくズーニーさんに)。そして最後にランダムに舞台上で話された方々の話を聞いても、このワークショップの凄さがよく分かった。そして、その話を客席で感動しながら聞いておられたズーニーさんの凄さも。
ズーニーさん、毎回こんなことやっておられるのですね。素晴らしい経験をされていますね。
私がズーニーさんが好きなのは、どんなに困難でも、「根本思想」を捨てることなく他者との橋を架ける道を進もうという強い意志(勇気)を感じるからである。私は常々コミュニケーションは、1勝99敗でいいと思っている。どんなに負けても、この1勝さえあれば信じられる。言葉を、他人を、自分を。
ズーニーさんも言っておられたが、ものを書く作業、考える行為、言葉を自分の奥の奥から紡いでくる経験は、非常に孤独なものである。だからこそ、少しでも通じたと感じられると嬉しい。
そのための勇気を与えてくれるワークショップだった。
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シンポ・西岡棟梁が残したもの
- 2010-07-19 (月)
- 日記
めちゃくちゃに忙しくて全然更新できなかった。頑張って追いつきたい。
さて、7月16日(金)は、竹中工務店東京本店で開催されている「棟梁-堂宮大工の世界」の記念シンポジウム「西岡棟梁が残したもの」に行ってきた。
http://www.dougukan.jp/toryo/content/reports/report_tokyo_1.html
パネリストは小川三夫さん、建部清哲さん、菊池恭二さんという超豪華メンバー。
早めに到着して展示を拝見。予想以上に人が多くて驚いた。うろうろしていると、小川さんに遭遇。少し前に出したお手紙も読んで下さっていた。しばし雑談。初めて握手して頂いた。
そうこうするうちに菊池さんも来られた。菊池さんとは初めてお会いするので、ご挨拶をして、記念写真などをお願いする。菊池さんとも握手をして頂いた。後日、なんと日本文化論を受講している学生の実家のお寺さんの本堂を菊池さんに建ててもらったという学生がいたことが判明。でもこの時は知らなかったのでその話はできなかった。
ところで、小川さんも菊池さんも、他の方と話しておられるところに私が近寄っていったのであるが、お二人とも、私が近づくのを感じて、丁度よい距離まで近寄ったときに、ふとこちらを振り返られた。棟梁というのはそういう気をきちんと感じられるのだろう。さすがである。
早めに2Fのシンポ会場へ。これまた予想以上の人数だった。司会の谷先生の名捌きもあり、とても面白いシンポジウムになった。
小川さんの気遣いとその存在感は圧巻だった。それだけでしびれた。
お三方が代わる代わるお話になる話は、どれも興味深く、勉強になった。興奮しっぱなしの至福の1時間半であった。
既に本で読んで知っていたエピソードも多かったが、やはり本で読むのとご本人の口から聞くのとでは全く違う。生の声の大切さを痛感した。
とても興味深かったのが、三人とも「西岡常一棟梁に弟子入りしたい」と強く思って弟子入りされたのではないことであった。ほとんど「偶然」、あるいは「間違って」といっていい。そして三人とも「宮大工を続けてきてよかった」とおっしゃっておられたことである。人と人との出会いとはこういうものなんだろう。茂木健一郎さんが「セレンディピティ」(偶然幸運に出会う能力)の条件として、「行動すること」「気づくこと」「受け入れること」を挙げておられるが、まさしくその通りである。
また以前私も質問した「最近の若者の気質」について、今回も司会の谷先生が小川さんに質問された。私が聞いたときと同様、「最近の若者は確かに違うなあ」とおっしゃったものの、だからといってそれは特別なことでもないような感じだった。おそらく小川さんには「最近の若者は」という発想自体がないのではないかと感じた。いつでも目の前に若者がいて、彼らを育て、ものになる者とならない者がいる。そして目の前の仕事を続けてゆく。ただそれだけなのかも知れない。
そして何より印象深かったのが、小川さんが浄瑠璃寺に遊びに行って帰ってきた時に、草むしりをしていた西岡棟梁の背中がとても怒っていたというエピソードである。この話自体は『木のいのち 木のこころ』に書かれているが、その時の西岡棟梁の気持ちを小川さんが、
悔しかったんでしょうなあ
とおっしゃったことである。これにはびっくりした。と同時に私にもとてもよく分かった。
そして今回初めてお会いした建部さんも、とても魅力的な方で、一瞬にしてファンになってしまった。
帰りの新幹線でも興奮しまくりの一日だった。
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「ものになる」ということ2
- 2010-07-14 (水)
- 日記
昨日「ものになる」ということについて書いたが、今日、木寺先生のブログを見たら、「常歩(なみあし)剣道の選手」について書かれていた。奈良高専の学生さんである。
前からお聞きしていたが、木寺先生は、剣道部の学生さんに常歩を積極的には教えておられないという。その学生さんは、木寺先生の本を読み、自分で稽古したらしい。もちろん本を読んだだけでは出来ないが、何しろその著者が目の前にいて、最高のお手本を見せてくれるのである。手取足取り細かく教えられるのではなく、師匠の動きをよく見て、本もよく読んで、自分で体得していったのである。これこそ私が「徒弟制度的指導法」と呼んでいる武道の習得法である。木寺先生も、その学生が常歩を稽古していることは知っていたはずだが、聞かれない限りおそらく自分から細かく教えることはなかったはずである。ブログには、「ほぼ常歩の足さばきをマスターしています」と書いてある。つまり「ものになった」のである。その学生さんも師匠にこう書いてもらえて最高に嬉しいに違いない。
このような学生さんが高専にいることが何とも頼もしい。ぜひ豊橋技科大に来てね~
もちろん彼は常歩をものにできなかった可能性もあった。彼以外の学生さんは今のところものにしていない(この前の合同稽古のときに、彼だけが常歩を稽古していると他の学生さんが言っていたので)。そもそも木寺先生は常歩を教えていないのだから、剣道部では常歩をマスターすることは、目標でも何でもないのである。
たまたまその学生さんが勝手に興味をもって、勝手に稽古したに過ぎない。しかしそれは木寺先生の「教育の質」が低いことを意味しない。逆である。良質であったからこそ、そういう学生が出て来たのであり、常歩をものにできたのである。
今後、彼に続く学生さんがどんどん出てくることだろう。
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「ものになる」ということ
- 2010-07-13 (火)
- 日記
先日、「ものになる」ということを書いた(ここ)が、おそらくそれは、古畑任三郎の影響である。この前久しぶりに見ていて、その回の主人公であるマジシャンが弟子について「さて、この中で何人がものになるか?」と言っていたのが印象に残っていたのである。その時、そういえば最近「ものになる」という言い方をあまり聞かなくなった、と思ったのだ。
「ものになる」ということは、当然「ものにならない」者もいるということだ。そしてものになるかならないかは、弟子本人の責任ということである。
この現代の教育観とは逆の価値観が大切だと思う。ものにならない者も多い。その前提があってはじめて、人はものになるのではないだろうか。
それと学校の先生と生徒みたいな関係とも違いますな。百点を取らせるために先生が頑張るということはないんです。
「徒弟制度」について西岡常一棟梁が語った言葉である。生徒全員をものにするために、先生が頑張る。そのことによって、ものになるということが非常に曖昧になってしまっているのである。
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足底屋さんと会う
- 2010-07-09 (金)
- 日記
7月8日。木寺先生のご紹介で足底屋日記の水口さんとお会いした。ヨーネル開発者で私がいつも体を見て頂いている丹羽療法(丹羽動作科学研究所)の丹羽先生、エミコさん、オオガケくんとホテルロビーまでお迎えに行き、夕食後、丹羽先生の車で丹羽療法へ。
まず丹羽先生がご自身の治療の立場から、いろいろな問題意識をお話になる。その後、水口さんがマイ足モデル、エミコモデルを使いながら、お話しをして下さった。丹羽先生は、上(頭・体幹)から下(足)に辿りついたという。水口さんは、体全体の中で足を見ておられる方である。
いやー、面白かったー!
あっという間に時間が過ぎてしまいました。丹羽先生のお話はいつも伺っていて勉強しているのだが、今回それに水口さんのような超ハイレベルな実践者のお話がコラボして、とんでもない世界となってしまった。なんせ丹羽先生は、あのアベベ選手の足を実際にご覧になって、その足裏に豆ひとつ出来ていないことを確認された方である。そして水口さんは、その理由を明快に解説できる方である。武道と関連深い話も随所に。なるほどそうだったのか、という発見が満載。何とも濃厚な時間でした。
終了後、水口さんをホテルまでお送りして帰る。名古屋までエミコさんとオオガケくんと同じ電車。三人ともかなり興奮していたと思う。
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想像力2
- 2010-07-07 (水)
- 日記
想像力と言えば、こんなこともあった。
先日の武道部合宿。稽古を終えて打ち上げの店に到着した時の事である。
体育館からお店まで何台かの車に分乗し、残りはバスで移動した。店の前と横に駐車場があった。私が乗った車が到着した時、先発組が3台ほど着いていただろうか、立っている部員も10人は越えていたように思う。ところが、私が乗った車が到着した時、誘導した者は一人もいなかった。私は助手席に乗っていて、横の駐車場の入口に立っていた卒業生の目を、「そっちはまだ空いてるか?」という気持ちで見た。
彼は微笑んだ。
仕方ないので駐車場の中を指差した。「そっちまだ入れる?」という気持ちを込めて。
彼は微笑みながら頷いた。車は入って行ったが、彼は立ったままだった。彼やその他の部員が一斉に動きだしたのは車が駐車場の奥まで行って、スペースが空いていないことが分かり、車がバックし始めてからである。空いていたのは他の店舗のスペースだった。結局その駐車場を出て、店の前の駐車場にとめた。
その場には他にも卒業生がいたが、学生も含めて、後から何台来て、それをどこにとめたらいいかを、事前にシュミレーションするという想像力が欠如していたのであった。シュミレーションしてスペースが足りなければ、お店の人に他の駐車場がないかを聞かなければならない。車が到着してからでは遅い。特に卒業生は私といつも一緒に行動していながら、私が普段やっていることを見ていないのだろう。自分だって誘導された経験があるはずなのに。たぶんすっかり忘れているのだろう。私もいつだれにそうしたかなんて覚えていない。そういう状況ではいつでもやっているからである。
そして駐車スペースのシュミレーションと誘導については、第一回寺子屋の懇親会で同様のことがあり、社会人としてその程度のことが出来ないようでは困ると卒業生のY君が苦言を呈した。今回その場にいた何人かは、その寺子屋懇親会にいたメンバーである。
事が起こってから動くのでは遅すぎる。起こる前に想像力を働かせて、気を利かせて、行動できないようでは、武道はおろか社会人としても覚束ないと思うのだが、彼らの会社ではそうではないのかしら。
それにしても武道の修行と称して、彼らは普段一体何の修行をしているのだろう。
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想像力
- 2010-07-06 (火)
- 日記
今日は三年次編入の学力入試。本学のメイン行事の一つである。
同僚からこんな話を聞いた。
朝のバスは当然のことながらぎゅうぎゅう詰め。もちろんほとんどは受験生。彼らは、
「俺の友達、旧帝大の編入受けまくってるんだよ~」「俺もいろいろ受けてるよ~」などなどいろいろ楽しそうに話していたそうな。
受験生諸君、その時間のそのバスに乗っている受験生以外の人間は、かなりの高い確率で大学関係者であると考える程度の想像力を持たれた方がよろしいかと思う。
面接がある系の受験生かどうか知らないが、面接で、「やあ、先ほどはどうも。」なんてことになったらどうするんだろう?それでも、
本学の志望動機は?
貴学は大学院教育に重点をおき、高度な技術者養成を使命としておられ……
なんてやりとりをするのだろうか?
もちろんそれを逆手にとって、わざとバスで種を巻いていたとしたら、それはそれでよい。ただ私はそこまでのテクニックを駆使できる学生にあんまり会ったことがないだけである。
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「って、この人誰ぇ???」って!!!
- 2010-06-23 (水)
- 日記
ぎゃはっ!
常人歩人さんのブログに登場してしまいました。
「この人誰ぇ???」って、私だよ、私(^0^)v
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珈琲修行
- 2010-06-07 (月)
- 日記
昼休み、マイポットを持ってマスターのもとへ修行に。
まずは、トーストとタンザニアをいただく。トースト、美味しい。エミコさんが目を付けた通りだった。
いよいよ修行開始。
1回め、お湯の量が多すぎ。
2回め、マンダリンを淹れる。急ぎすぎ。
引いてくる時はいいけど、向こうへ行くときに急ぎすぎです。ということは、遠いんでしょうね。もっと手前に持ってきてやって下さい。自分の姿勢はそのままで、物を動かすか、近寄るか、遠ざかるかです。
「行こう」とするから急ぐんですね。
うおーっ。姿勢といい、心法といい、いつも空手の時に自分が言っていることを言われる。
3回めはブレンド。なかなかいい。
マスターも味見してくれる。
いいんじゃないですか。ちょっとマイルドだけど、でも味はしっかり出てますよね。
といいながら、マスターも淹れる。
うん、中森さんの方が、マイルドですね。僕の方が、ちょっとコクがありますね。中森さんのは、何かしながら飲むのにいいですね、飲みやすくて。
飲み比べてみる。ものは言いようだ。
これが同じ豆で淹れた珈琲か?というくらい違う。淹れた人とポット以外、全て同じである。
でも、こっち(中森)の方がいいってお客さんに言われると、そうなんでしょうね。きっと別の人が淹れると、また別の味になるんでしょうね。どれもこの珈琲の味なんでしょう。でも、エッセンスは引き出したいですよね。
実にコクのある味わい深い言葉である。我が身を反省。
学問でも武道でも、教え子は同じにはならない。それぞれ違う。しかし単に違うだけではない。それぞれの個性のエッセンス(本質)を引き出した上で現れる違いでなければならない、そう言われたのだろう。それが西岡常一さんや小川三夫さんのいう個性なのだろうと思う。
マスターは、私の淹れた珈琲を決して不味いとは言わない。間違っているとも言わない。それもこの珈琲の味であり、私の味だと言う。
でも、エッセンスは引き出したいですね。
自分と目の前の珈琲のエッセンスを引き出せれば、私が淹れた珈琲とマスターが淹れた珈琲は、今とはまた違った味になるだろう。
マスターが言うように、「私は失敗した」と思ってはいけないのだと思う。これが、今の私が引き出した珈琲の味なのだ。失敗という発想には正解という前提がある。しかしマスターが私に伝えてくれたのは、
珈琲の味に正解はないんですよ。
ということなのだろう。ただ、今の自分がいて、目の前に珈琲がある。そこで出て来た味が、今の味なのだ。でも、自分の淹れた珈琲を飲んでみて、私は、もっとエッセンスを引き出してやりたいと思う。ここまでしか引き出してやれずにごめんね、と思う。そして次に淹れるとき、また目の前の豆と正面から向き合うのみである。マスターがいうのは、珈琲を淹れ続けるということは、おそらくその思いと現実の持続だけがあるのだということだろう。いつでも本番であり、いつでもそれがそれ以上でもそれ以下でもない現在の結果なのである。
やはり、教育と同じである。目の前に現にいる人間と向き合い、お互いのエッセンスを引き出そうとし、ここまでしか引き出してやれなくてごめんねと思う。そしてまた目の前の人間と向き合う。
最近、ある教え子のエッセンスを引き出してやれなくて、とても苦しかった。今、考えると、うまくエッセンスが引き出せなくて、あんまり難しくて、私は心のどこかで、ちょっと逃げていたのかも知れない。しかし、今日の修行でなんとなく感じがつかめた。
これからも逃げずに頑張ろう、と思った。私は何度も失敗したと思っていたが、そうではない、ということを今日マスターに教えてもらった。それがそのときの味なのですよ、と。傲慢になることも、卑下することもない、紛れもない「今、ここ」の味なのである。
小川さんもマスターも、だからいつでも自然体なのである。私もはやく、教え子の、ピュアなエッセンスを引き出せる自然体を身に付けたい。
大丈夫ですよ、だいぶいい感じですよ。あとは回数をこなせば大丈夫ですよ。
帰り際、マスターが笑顔で言ってくれた。
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530運動
- 2010-06-06 (日)
- 日記
今年は少し遅めの530(ゴミゼロ)運動。長らく出ていないので、出る。
娘と二人で仲良く喋りながら草むしり。
富岡製糸工場って知ってる?
知ってる。
明治時代に製糸工場が出来たとき、現場監督が苦労したのが、私語をしないで仕事に専念させることだったんだって。それまでは雑談しながら手を動かすののがむしろ当たり前だったから。
と、菅野仁さんが『教育幻想』(ちくまプリマー新書)に書いていた(p38)ことの受け売りで、喋りながらの草むしりを正当化する。
この前の審査、よかったなあ。普段の稽古より出来てたんちゃうか?ということは、普段手抜いてるな?
抜いてません(><) あのーっ、手抜いて稽古してたら、いざという時出来ないって、いつも言ってませんでしたっけ?
……
すみませんでした。
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