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2010-11

五体の休日

 29日。
 五体治療院へ。今日は治療院休みでしょ。

でも、この方もやってきたし。
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こんな足の人もいたし。
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タクちゃんとツーショットも撮ったし。
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で、何しに行ったかって?

もちろん、サイコガンの練習です。
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って、セーターの色、違うくない???

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棟梁ー小川三夫さんトークショー

28日。「棟梁ー堂宮大工の世界」展、小川三夫さんの講演(トークショー)。
東京の時にも行った巡回展である。神戸のツアーには抽選で外れたので、今回楽しみにしていた。
午前中、展示の見学。何度見ても素晴らしい。道具館の館長さんが展示説明をして下さった。これが実に熱のこもった解説であった。
好運にもまたしても講演前に小川さんに会えた。ご挨拶と立ち話をちょっとして、早めの昼食。その後、会場入口で並ぶ。開場してからもどんどん席がうまっていき、開始前に400席余り用意された席が満席となった。
 私の最大の目的は、小川さんの存在を感じることなので、講演前にもうほとんど目的を果たしていたが、その後2時間、その存在感を十分堪能できた。
 「欲を出したらあかん」。もちろん小川さんはそうおっしゃった訳ではないが、小川さんに会うと私はいつでもそう感じる。「欲を出したらあかん」。だから、今日も会えただけでもう大満足なのである。
 しかし幸せなことに講演も聞けた。しかもいつものようにとても面白い。昨日のエントリーとの関連でいうと、これは前にも聞いた話であるが、小川さんは、お弟子さんの、鉋をかけたい、かけたいという思いが満ちてきて、ここ、と言うときに鉋を貸してやるのだそうだ。その時、自分が持っている一番いい鉋を貸してやらなければならない、そうおっしゃった。そうすれば、その次から、そのお弟子さんは、見違えるようになるのだそうだ。研ぎなども全く変わるという。これが、昨日書いた、「手をさしのべる」ということである。教えるのではない。弟子に感じさせるのだ。ふさわしい「時」に、ふさわしい実感をさせる。この「一番いい鉋でなければならない」というのが私には非常によく分かる。今までの自分の研ぎと鉋かけは一体なんだったのだと思うに違いない。そして本当の鉋かけの感覚を一度味わってしまったら、もう止められない。もう一度味わいたくて仕方なくなるだろう。今度は自分の鉋で。

 今回印象深かったのは、質問に対する小川さんの答えである。大工さんを目指している小学生からの質問。

一本の木に何回くらい鉋をかけるのですか?

小川さんはこう答えられた。

その大工さんが、もうこれでいいと思うまでかけるんです。

感動した。さすがという他ない。

 終了後、学生たちと夕食、さらには二次会へ。こちらも楽しく時を過ごせた。

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古武道審査とチンパンジー

27日。
武道部の古武道審査。全員無事合格。審査を見ていて、改めて「継続の威力」を感じた。そして好きになることの大切さ。キャリアに応じて上手くなっているし、今度上級に合格した部員は古武道が好きで、演武会などでも結構やっている。
 ただし、このあたりが今の限界だろう。そしてここを乗り越えれば、いよいよ黒帯である。素手でも武器を持っても、そこにはその人自身が現れる。素手の形が丁寧な人は、古武道の形も丁寧だし、つまりはその人が丁寧な人間だということである。そういう人は、万事が丁寧なのである。
 素手の稽古から逃げて古武道に走った人もいる。稽古をすればそれなりに上手くなるが、そこに現れる自分自身は誤魔化すことができない。今の自分という人間の枠をうまく突破できれば、素手も古武道も一挙に上達する。それが次の審査までの課題となるだろう。講演会にいくのもその一つである。
昼食を学食で皆と一緒にとって、午後からその講演会へ。今回は松沢哲郎氏(京都大学霊長類研究所所長)の「チンパンジーから見た世界」。ものづくりフェア2010in東三河記念講演・(豊橋技術科学大学)榊プロデュース 第9回プレステージレクチャーズの講演である。武道部からは17名が参加。
 「人間とは何か」を考える上でも、「教育」を考える上でも、武道の修行について考える上でも、また自分の生き方を考える上でも、非常に刺激的な内容だった。
 私は、恥ずかしながら「四手動物」という概念を初めて知った。今まで足だとばかり思っていたけど、実は手だったのね。この問題は「歩く」「走る」を考える上でも、非常に示唆的である。
 またチンパンジーの「教えない教育・見習う学習」は、徒弟制度に近く、私が提唱している「逆説の教育」に通じるものである。
だが大きな違いがある。松沢さんは、チンパンジーは「今、ここ」を生きているのに対して、人間は、想像力の空間的・時間的スパンが大きいゆえに、希望も絶望もある、とおっしゃった。そこが「人間」なのだと。その通りだと思う。
 親の石器を使う様をじっと見習っている子どもチンパンジーは、4~5歳まではそれを習得できないそうだ。つまり、4~5年間何も教えてもらえず、ただただ見て真似るのである。そして「今・ここ」を生き、将来を絶望しないチンパンジーでさえ、ある限界を超えると、習得を諦めてしまう子もいるのだそうだ。
 まして、余計なことをごちゃごちゃ考え、目の前のことに一喜一憂し、時に絶望したり、歪んだり、ルサンチマンをもったりしてしまう人間にとって、この「教えない教育・見習う学習」は大変難しい。しかしそれにも関わらず、これこそが教育の原点なのである。限に、今でも高度な技術を伝承する所では、例外なくこの教育法が採用されている。それを私は「逆説の教育」という言い方で提唱しているのである。
 「逆説の教育」においては、「動機」が非常に重要となる。まず、そのことをやりたい、それに憧れるということが大前提である。これはチンパンジーも同じだろう。だがチンパンジーと違って人間は、それを継続する動機を求めたくなる。普通は、それをやり続けることによって、さらにそれをやることが面白くなってゆくという、自動自己動機増殖システムが働く。だから親や教育者には、それがうまく働く環境作りが求められる。「この環境において、目の前のことをきちんとやり続ければ、自分にも出来るようになるかもしれない」と心底信じられる雰囲気の中で、やればやるほどもっとやりたくなるような環境である。
 そして松沢さんが、「人間」の特徴としておっしゃった、「手をさしのべる」。いいタイミングでうまく手を出すことが、非常に重要である。これについては、明日の小川さんのところで述べることになるだろう。

 もう一つ、チンパンジーと人間には、言葉の違いがある。人間は高度な言語能力を持つゆえに、高度な技術も可能なのだと思う。しかし、その高度な技術を身に付けるためには、その言語を捨てなければならない(言語から自由にならなければならない)という逆説が存する。師匠の技術は、言葉を離れ、生身の人間に即したところからしか、弟子の中に再生されることはない。

そんなこんなで、いろいろ考えることのできた講演会だった。
終了後、急いで尚志館へ。その後、講演の感想食事会。これまた全員、いろいろなことを感じたようで、楽しかった。
参加した部員は、非常に得るものが大きかったと思う。それを自分のものにできれば、参加しなかった部員がとても悔しがりますよ~

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物は自然の妙にいたれば……

 先日、島津忠夫先生の講演会(「天性の詩人・西山宗因―連歌と俳諧と―」平成22年7月31日 於八代ロイヤルホテル)の資料を見ていると、岡西惟中の『近来俳諧風体抄』の次の箇所が引かれていた。
 
 物は自然の妙にいたれば、感応ある事多し。余にことし正月廿一日より源氏物語講ずべきよし、門下の人々所望ありければ、桐つぼの巻よりよむべき事に成ぬ。余が家月次廿日の発句を、十九日に成て梅翁へこひ申ければ、
  初会や殊にすぐれて時めき給ふ
とあそばし給りぬ。是、源氏桐つぼの巻の詞也。奇妙の事也。

 島津先生がこれをどう解説されたかは分からないが、このような「感応」を惟中が意識していたと知り、とても嬉しくなった。

 物は自然の妙にいたれば、感応ある事多し。

 のちに芭蕉が実践し、支考が解説するように、俳諧はこの「自然の妙」に至ることを重視する。もちろん、芭蕉は「造化に帰れ」とはいうが、「感応」については言わない。支考も「道理」とか「虚実自在」とはいうが、「感応」については論じていない。「感応」自体は直接句作と結びつく訳ではないから、当たり前と言えば当たり前である。しかし芭蕉や支考も、この「感応」をしばしば体験していたことは間違いないだろう。
 武道の修行を続けていると、この「感応」の感度が上がってくる。単に流れにのっているだけなのに、あらかじめそれが全て用意されているかのように、出来事や物が向こうからやってくるのである。
 チクセントミハイのフロー理論によって基礎づけられた「燃える集団」を可能にする「長老型マネジメント」を提唱している天外司朗がよく口にする「共時性」も、これとほとんど同じである。

 「共時性」が感じられたら、即それに乗っていくのが良い結果を生む。(『マネジメント革命』61頁)

 当然惟中もそうした。

 やがて脇に、
  七十以上の梅の下風
 とつかうまつり、廿日の会めでたくミちぬ。

 もちろん「感応」は結果であって目的ではない。「感応」を求めるとろくな事はないだろう。惟中も、「自然の妙にいたれば」結果として「感応ある事」が多くなると言っている。
 私は武道を研究・修行しながら、俳諧を研究し、哲学・思想を勉強している。さらに「人間力」と「コミュニケーション」を研究・教育しながら、それと関連したマネジメントも勉強している。この一見何の関係もないものは、私の中では、この「妙」と「感応」という点で繋がっているのかもしれない。惟中は「自然の妙」と言っているが、それが自分自身の問題であることは、惟中もよく分かっていたはずだ。そして私は西田耕三『近世の僧と文学』(ぺりかん社)の副題を思い出す。妙幢浄慧の言葉。

 妙は唯その人に存す

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五体の日

 23日。五体治療院へ。
 もちろんサイコガンの練習に行ったのである。
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島根3

21日。島根3日め。
今日は朝から日本近世文学会。いろいろ刺激をうけるいい発表が多かった。
俳文学会は、いろんな時代の発表が聞ける。近世文学会は、いろんなジャンルの発表が聞ける。今回そのジャンルについて質問が出た。もちろん一義的に厳格にある作品のジャンルを規定する必要はないと思うけれども、そこにはその作品をどう読むかということが自ずと内包されてしまうということだろう。
もうひとつ思ったのは、「従来は・・・」という言い方である。学会発表は、だいたいにおいて、「従来はこう考えられてきたが、私はこう考える」という形をとるが、この「従来」をどこに想定するかは、結構難しい。基本的には論文や著書で公開された言説であるが、しかしきっちりと論証されていないだけで、そこにいる人が既に「従来」とは違うように考えている場合もあるからである。発表の主旨とは無関係に、そんなことをいろいろ考えた。
ともあれ、いい学会だった。開催校や事務局の方々のご苦労に深謝致します。もうすぐ京都につくのぞみの中にて。

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島根2

 20日。ちょっと早起きして出雲大社へ。

RAILWAYSの舞台、一畑電車に乗る。
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なんとガイドまでやってくれた。
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出雲大社前駅では、RAILWAYSで見たデハニ50形52号車も展示されていた。
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「日本最古級の電車」の中にも入った。木の感触がいい。運転席にも座ってみた。運転手さんにはこんな風に見えてるんですねぇ~

今日は出雲大社は、縁結大祭。えらい人だった。正月どころではない、とバスガイドさんが叫んでいた。
が、なんとか焦らずゆったりした気持ちで参拝できた。 本当はもっとのんびりしていたかったのだけれど、そうもいかない。大急ぎで古代出雲歴史博物館の展示を見て、蘇を食べて、再び出雲大社前駅へ。プルプルがなっていたが、「のりま~す」という人が何人かいたおかげで、私も乗れた。

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島根1

 19日。20日からの日本近世文学会のため、島根へ。
最近電車に乗り間違えてばかりだから、用心して新幹線にのる。名古屋での乗り換えもうまくいった。
やれやれ、と安心していると、京都で二人連れのお坊さんが乗ってきて私の横に座った。むむむ、同じです。あたま。
どう見ても3人づれぇ~
そんなことを楽しみながら、岡山で「ゆったりやくも」に乗り換える。
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 途中の大山がきれいです
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 米子からシャトルバスで8年連続庭園日本一の足立美術館へ。
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 きれいですね~ でも私にはちょっと綺麗すぎるようです。
10年に一度という横山大観展も迫力があったが、陶芸館の魯山人のものがよかった。
宿は『出雲国風土記』にも出てくる玉造温泉。
これは宍道湖。
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岐阜2

16日。岐阜二日め。
朝から岐阜県図書館。『十論記文秘説』『俳諧十論発蒙』の調査である。前にも見せていただいたが、今回また拝見できた。
岐阜県図書館は前の場所にあったころからお世話になっているが、私の大好きな図書館である。係の人はとても親切だし、建物も素晴らしい。郷土資料をコピー製本して開架図書として誰でも気軽に見られるようにしてあるのも、とてもいいことだと思う。
初めて岐阜県図書館に行ったとき、「獅子吼」を創刊号から順に全部だしてもらい、1号ずつページを繰っていったのを思い出す。まだ何も分からず、それらしいページを片っ端からコピーしていった。
終了後、美濃派再和派の水上道場へ。ここも昨日書いた方に連れていってもらった。その時は何も分からず、ふーんこんなところがあるんだ、くらいだったが、それでも心のどこかにずっとひっかかっており、もう一度行きたいと思っていた。やはり今来ると感じ方がまったく違っている。私もそれなりに成長したのかな。
その後、岐阜市歴史博物館。「洛中洛外図に描かれた世界」を見る。抹茶をいただいて帰る。
自分の研究のルーツをたどったような2日間だった。

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岐阜1

15日。岐阜へ。
まずは大智寺さんへ。私の恩人のお墓参り。この方がいなかったら私の支考研究者としての人生は今とは全く違っていただろう。私の支考研究者としての出発を支えてくださり、その後も孫のように可愛がって下さった。無精にもしばらく訪れていなかった。2001年10月10日にお亡くなりになってから早いものでもう9年たつ。今でもあの特徴あるお声が耳にしっかりと残っているが、胸をはってご報告できるような成果をあげていないので、恥ずかしい。しかしそれよりもお墓に行けたことが嬉しい。
その後、昼食は例によってこの方が大好きだった岐阜会館へ。ご飯を食べに連れていってくださる時はいつでも岐阜会館だった。そして有頭大海老フライを召し上がられた。それを思い出しながら、私は普通の海老フライを食べた。
その後、お宅へ。実は亡くなる少し前に私に見せたがっておられた資料があった。歴史博物館でお会いしたときにわざわざ持ってきて下さっていたが、その時はよく拝見する時間がなく、そのままになっていたのである。それを拝見に伺った。今年中に伺おうと思っていながらぐずぐずしているうちに、先日息子さんから全く別件でお電話を頂き、その時にお願いして今回の訪問がかなったのである。「中森さん、何をぐずぐずしているの!」と励まして下さったのだろう。

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