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2011-10

内村鑑三「弟子を持つの不幸」

 山折哲雄さんのCD『親鸞と歎異抄』を聴く。2011年7月19日に京都で収録されたものである。
 その中で、「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」と、内村鑑三「弟子を持つの不幸」について語っている。そういえば、『教えること、裏切られること-師弟関係の本質』(講談社現代新書)でも、この二つについて論じられていた。私はこの本に触発されて、短いエッセイを書いたこともある。

 今回もう一度「弟子を持つの不幸」を読み返してみた。
 「弟子を持つの不幸」は、昭和2年8月10日『聖書之研究』325号に掲載された。「原稿箱の底」から発見された「古い原稿」であると注記がある。

 内村はまず、こう述べる。
 自分は生涯において未だかつて、人に向かって「自分の弟子となれ」と言ったことは一度もない。それなのに多くの人は、自分から私を「先生」と呼んで私のもとにやって来たのである。そのような彼らに対して私は、「私はあなたたちの友人であって師ではない。私の宗教においては、師はただ一人キリストである」と忠告し、私の師であるキリストを紹介しようと努めた。

 然るに事実は如何と云ふに、余の此忠告、此努力は百中九十九、或は千中九百九十九の場合に於ては裏切られたのである。(『全集』30巻 390頁)

 内村を先生と呼んで来た者は、そのほとんどが、「自分の懐く理想の実現を想像して」やって来たのだ、という。つまり、内村の信仰について深く追究することなく、「自分の理想」を内村に見てやってきたに過ぎない、というのである。

 実に余の不幸、彼等の不幸、物の譬へやうなしである。390頁

 したがって無数の者が、内村に失望して彼のもとを去ったが、依然として内村に自分の理想を求めてくる者が絶えない。しかし彼等は、

 近代人の悪習として、彼は師を求るに方て之に教へられんとせずして、之に己が理想の実現を迫るのである。391頁

 ほとんどの弟子は、口では「先生」と呼びながら、その実、師に教えられようとするのではなく、師に自分の理想の実現を迫っているに過ぎない、というのである。だから、

 彼等は己が心に画きし理想をそ其の選びし師に移し、其実現を見れば喜び、見ざれば憤るのである。(略)師が教へんと欲するが如く教へられんと欲するのではない、自分が教へられんと欲するが如くに教へられんと欲するのである。391頁

 彼らは、自分の理想を師に映しだし、それが師によって実現されると喜び、そうでないと憤る。つまり彼らは、師が「こう教えたい」と思っていることを教えてほしいのではなく、自分が「そう教えてほしい」と思っているように教えてほしいのである。
 内村はこれを「近代人の悪習」と呼んでいるが、近代に限らず、いつの時代でも人間というものは、ここから逃れるのは非常に難しいのではないだろうか。私の念頭にあるのは芭蕉の弟子たちであるが、芭蕉ほどその人生において俳風を変えた俳人はおらず、どんどん変化し続けた。そしてその芭蕉に、ずっとついていったのはごく僅かな弟子に過ぎない。離れていった者の方が圧倒的に多いのである。
 自分の求めるものから師がズレたとき、自分が求めるものを修正して師について行くのではなく、師が変節してしまった、師はそうあるべきではない、と師に修正を求めてしまうのだろう。だからこそ、芭蕉も空海の言葉としてこう述べているのである。

「古人の跡をもとめず、古人の求(もとめ)たる所をもとめよ」と、南山大師の筆の道(に)も見えたり。(「許六離別詞」)

 「古人」を「師」と置き換えても同じである。弟子は師の求めたるところを求めるのであって、師の跡を求めるのではない。しかし、師を求め、ましてや師をダシにして自分の理想を求めている弟子たちは、自分の教えてほしいように教えてくれない師に対してこう言うのである。

 彼等は先生として仰ぐ人に向つて曰ふのである、「先生、貴方は斯う信じ又教ふべきであります。貴方の信仰は斯くあるべき筈であります」と。391頁

 そしてそれが受け入れられないと分かると、

 彼等は失望し、憤り、罵り、其師を呼ぶに偽善者を以てし、彼を去り、彼に反き、弟子は変じて敵と化し、全然絶交的状態に入るのである。391頁

 こういう者は、枚挙に暇がない、そう内村は嘆いている。

 しかし内村は、これらはいくつかの点に注意をすれば、多くの場合においては避けることは難しくないという。
 一つは、自分の「天与の特長」を忘れないことである。内村は、自分は「労働者(はたらきて)」であって「指導者(リーダー)」ではなく、師たる資格を具えない者であると言う。つまり、

 余の如きは如何なる場合に於ても如何なる人とも師弟の関係に入るべからざる者である。(着)カーライルもベートーベンにも弟子と称すべき者は一人も無(なか)つたやうに、余も亦彼等の跡に従ひ、一人の弟子なくして世を去るべきである。392頁

というのである。それが自分の「天与の特長」なのであると。

 第二に、内村は、自分が人に何を与えることができるかをよく知ってもらいたいという。自分は「旧式の基督者(クリスチャン)である」と。だから、それ以外の物を自分に求める者は失望せざるを得ないのであると。

 余を通うしキリストの福音を看出せし者は永く余の友人として存し、年を経るも余を去らない。十字架の福音以外のものに惹れて余の許に来りし者は、遅かれ早かれ余を離れ、余とは全然関係の無き者となつた。393頁

 第三に、自分は基督者(クリスチャン)であると同時に「旧式の日本人である」という。もし基督教が日本武士の理想を実現する者であるとの事が解らなかったら、自分は基督者(クリスチャン)に成らなかっただろう、というのである。この点は興味深い。

 是れ聖化されたる武士道であつて、余は此道に歩まんとして努むる者である。故に基督者(クリスチャン)であると雖も、英米流の基督者たる事は出来ないのである。(略)余は大抵の事は聖書や基督教に問ふまでもなく日本人の道徳に依て決する。先づ厳格なる日本人であり得ない者は基督信者たる能はずである。394頁

 三つめの話は内村のキリスト教に対する態度が伺われて興味深いのであるが、それはともかく、師も弟子も、自分の本性をよく知り、弟子に与えることができる物、師から与えてもらえる物をよく理解すれば、お互いの不幸はだいぶ避けることができる、というのである。
 
 しかしながら、内村には気の毒だが、師弟ともに、「近代人の悪習」を去り、お互いの本性をよく知り、何を教えることができて、何を学ぶことができるかを十分理解していたとしても、結局は師は弟子に本質的に裏切られることを避けることは出来ない。内村もほんとうはそのことをよく分かっていたはずである。むしろ「近代人の悪習」をもって、自分の理想を師に迫る程度の弟子の方が、裏切り度合いは低い。ただ近寄ってきて、ただ去って行くだけだからである。千人のうち999人は、師をほんとうの意味で裏切ることさえ出来ないのである。
 内村のいうような努力をすればするほど、つまり弟子が真に師から学べば学ぶほど、師は弟子に本質的に裏切られる。逆にいうと、そこまでいって初めて、弟子は「私は師から確かにこのことを学び得た」といい得る。千人のうち999人が去り、最後に残った1人だけが、師を「本質的に」裏切ることができるのである。
 本質的な裏切りを含まない学びは、浅くて薄っぺらい。
 内村の嘆きは、ほんとうは、去った999人に向けられたのではなく、残った1人に向けられていたのかも知れない。

防災訓練

今日は防災訓練の日。

いざという時に備えるために普段の訓練がとても大切です。


消火器訓練。「火事だ~と大声で叫びながらやりましょう」


放水訓練


見事的に命中~

今日の稽古

 今日は、基本の形→撃砕第一→四向鎮へと連続かつ展開してゆく技を説明して、稽古した。それぞれの段階でその身体操作を基本通りしっかり稽古しておくと、次の段階で次の展開が待っている。それぞれの段階で間違った稽古をしていると、次の形でも間違ったまましかできない、という説明しながら、実演した。白帯も、今やっていることが後々どのように展開してゆくのか、今やっていることを正しくしっかりやることの重要性を理解してくれたようだ。色帯も黒帯も同じだと思う。

 そうこうするうち、終わってからの個人稽古で、幸美さんがブレイクスルーした。これまでとは全く別次元の動きができるようになった。見事な技である。

 それまでいくらやってもうまくいかなかった技が、ある日突然できるようになるということがある。動きが別次元になる瞬間がある。その経験があるとまたしばらく頑張れる。幸美さんにとって今日がその日だったようだ。

 今日は谷君が連れてきた見学者がいた。そこから今日の稽古の流れができた。そういう流れの中で、最後の最後に幸美さんのブレイクスルーがやってきたのである。彼女はきっとその流れにうまくのれていたのであろう。見事な「ウッキッー」ができるようになった。「ウッキッー」の詳細は秘伝ゆえ、ここに書くことはできない。
って、そこにいた部員は全員聞いてましたけどね。

50mm F1.8Ⅱ

ついに買っちゃいました。EF50mm F1.8Ⅱ。
前から買おうと思っていたんだけど、今度の日曜日のために急遽購入。
早速研究室で試し撮り。
いいですねぇ。このボケ具合。
日曜日は、被写体がぼけないように頑張ります~

齋藤孝『結果を出す人の「やる気」の技術』(角川oneテーマ21)

 齋藤孝『結果を出す人の「やる気」の技術』(角川oneテーマ21)を読む。

 いつもの「齋藤新書」である。私たちの世代にとってはそれほど驚くことはないが、若い人に対する感覚には共感できるし、彼(女)らに対しそれをどう語ることができるかという点で、大変興味深かった。

 本書の前提は次のような認識である。

 若い人のナイーブで傷つきやすく心が折れやすい傾向は、修業感覚を味わっていないがゆえの弱さだと私は思っています。97頁

 私も同様の認識を持っている。しかもこの傾向がますます強くなっているように感じている。武道部ではこの「修業感覚」を存分に味わってもらえるようにしているが、それが年々難しくなってきている。
 つい最近も、この前「武道部に入って本当によかった」とtwitterでつぶやいていた部員が、今度は「モチベーションが上がらないから休部したい」と言ってきた。ちょっとしたことでモチベーションが上がったり下がったりする。もちろんそんなことは誰でも一緒である。しかしその揺れ幅が極端で、しかもすぐにそれで行動してしまうのである。

 モチベーションを行動原理とするのは彼(女)らの責任ではない。「自分のやりたいことをやりなさい」「自分がほんとうにやりたいことを見つけなさい」「自分を大切にしなさい」という言説の中で、むしろそれが奨励されてきたからである。その言説の中では、「やるべきこと」よりも「やりたいこと」が優先されるのは当たり前である。
 しかし、モチベーションを行動原理とすることの困った点は、一つのことを長く続けられないということである。一つのことを長く続けられないと、あることを「深める」という感覚、ましてや「極める」という感覚をもつことができない。何か一つのことを続けていれば、モチベーションが上がるときもあれば上がらないときもある。長く続けている人は、たとえ今下がっていても、続けていればそのうちまた上がってくるという経験を誰でも持っているものである。最近はその経験を持たない人が増えているのであろう。
 
 私は何もこの「やるべきこと」を、外からの強制と考えている訳ではない。これはあくまでも、自分の内的な決心として決めることである。 
 たとえば武道部は、入部も退部も自由である。当たり前である。だがその前提で、敢えて心構えとして言えば、いったん入部したからにはやめないという強い意志が大切である。「嫌ならやめればいい」という甘えは、本当に苦しいときの逃げ道をあらかじめ用意しておくことだからである。逃げ道があれば、ほんとうに苦しいときに踏ん張りきれない。これは小川三夫師匠が、他ではやっていけない人しか採用しない、とおっしゃる通りである。退路を絶ったところから修業は始まる。齋藤さんも「おわりに」でこう書いている。

 最近大学生がOB・OGとのつき合いがうまくないのでもったいないと感じる。先日、運動部出身の三十歳くらいの人に「先輩から飲みに誘われて、断ったことありますか」と訊いたら、「考えたこともありません」という答えだった。断るという選択肢がないというのは、強い。そんな人には精神力を感じる。
 いま一番欲しいのは、そんなタフな精神力を持ったビジネスパーソンだ。202頁

 冒頭にも書いたが、本書は「齋藤新書」である。当然「特訓モード」「修業感覚」など、モチベーションを上げ、成果を出すための具体的なノウハウも書かれているが、それについては省略する。

 さて、そのようなタフな精神は深く沈潜する。

 ゾーンをつかむためには、とにかく没入してみることです。57頁

 いまの時代は、一つのことに深く沈潜していく集中力を鍛える必要があると私は思っています。日常生活の中で、意識が非常に拡散しやすくなっているからです。58頁

 この「ディープに「沈潜」して核心をつかむ」ことは、非常に重要だと思う。沈黙して沈潜する。この能力を鍛えた方がいい。ちなみにそれには武道の形は最適である。黙って、黙々と同じ形を何度も何度も繰り返しやった人なら、この意味が分かるはずである。

 意味とか意義に関して考えることを一旦保留して、そこに没入してこなす。技術を高めることで余計なストレスを減らす。
 意味はあとからついてくるはずです。66頁

 齋藤さんは、「十代、二十代は「人生の修業期」と定めよう」(95頁)と述べている。

 しかし今の学校にはそれ(修業の要素ーー中森注)がありません。(略)「苦しい」と感じることを続けて、がんばったことを讃えるようなカリキュラムがないのです。
 そのため、無理難題のカベを突き破ることへの恐れがあります。自分の限界を超えることに挑戦しようという気持ちが湧きにくくなっている。
 学校から厳しさがなくなり、ゆるくゆるくなってしまったことがいいことだとは私には思えません。96頁

 齋藤さんが「特訓」や「修業の感覚」の復興を願うのは次の理由からである。

 現代の日本人が修業感覚を失ったことが、感情のコントロールが効かなくなったことと結びついていると考えるからです。179頁

 非合理なこと、理不尽なことは世の中に当たり前にある。そういう状況に、現代人はもう少し慣れなくてはいけないと思うのです。181頁

 その自分ではどうしようもない状況を肯定して生きることが、人間の肚を作るという。

 芸事でもそうですが、ある流派に入ったら、「ここの教えは自分とは合わないから別の流派に行く」などということはありえない。能ならば宝生流に行ったら、宝生流が運命、観世流に行ったら観世流が運命になる。
 師に就くというのは、ある種、人生をそこに託すことなのです。
 自分の環境をわが運命と受け入れて、そこで肚を据えてかかるしかない。そういった選べない状況が、むしろ人を強くしたのです。
 ところが自由や選択の余地があまりにも許されるようになったことで、メンタルが鍛えられなくなった。182頁

 「快か不快か」という価値基準を中心に物事を考えるようになってしまうと、努力したけれども報われないこと、快適ではないが意味のあることへの意欲が萎えてしまいます183頁

 今、私たちは、刹那的な「快・不快」、「主体性」、「個性」などによらない行動原理と倫理、夢と誇りをもてる物語を構築しないといけないように思う。その意味で、竹田青嗣師匠の「竹田欲望論」は非常に希望がある。全面展開されることを切に願う。

第16回身体運動文化学会

 第16回身体運動文化学会「心と身体の統合性を探る」に出席した。

 午前中は研究発表、午後は基調講演とシンポジウム。
研究発表も興味深いものがあったが、何と言っても私のお目当ては、基調講演とシンポジウムであった。

基調講演  :佐藤雅幸氏「イップスにみる心と身体の関係~スポーツにおける心と身体の統合性~」
シンポジウム:「中国思想における心と身体の関係」
       土屋昌明氏(コーディネーター)、加藤千恵氏、鈴木健郎氏

 「イップス」については恥ずかしながら全く知らなかったので勉強になった。
 シンポジウムの方は、道教の専門家によるお話で、非常に興味深かった。と同時に、心や気の話を、道教の専門家でない聴衆に語ることの難しさと戸惑いが感じられ、その点でも大変共感できた。この学会には様々な専門分野の方がおられるので、どこに焦点をあてていいかに戸惑われたのだろうと思う。
 「気」とか「宇宙」については、どのあたりで共通理解が成立しているのかよく分からない。私も一般向けの講演で芭蕉の思想を説明するとき『荘子』の話をするし、学生に武道の話をするとき「宇宙」や「気」の話をするが、どのような語り口でどこまで説明すればいいのかが、とても難しいと感じるからである。

 さて、道教の修行の話を聞いていると、武道における修行論と非常によく似ていると感じた。

 顔回が言った、「どうか心斎について教えてください」。
 仲尼(孔子)が答えた、「あなたは志を一つにしなさい。耳で聴くのではなく、心で聴きなさい。さらに心で聴くのをやめて、気で聴きなさい。耳は聴くだけであり、心は符合させるだけである。気は虚のままで物の現れを待つものである」。(『荘子』人間世篇 加藤氏レジュメより)。

 気を(身体じゅうに)充満させて、きわめて柔らかな嬰児のようでありなさい。(『老子』第十章 加藤氏レジュメより)

 しかし、武道において、道教の影響が色濃くあったという話を知らない(私が知らないだけかも知れない)。そもそも道教は、日本文化や日本文学において本質的にどのような形で享受されていったのだろうか。だいたい私は、「道教」と「老荘思想」がどう使い分けられているのかもよく知らない。また話を聞く限り、道教における「心」と、西行や芭蕉、あるいは武道における「心」という言葉の意味が違うようである。そういうことも含めていろいろ勉強したいと思った、刺激的なシンポジウムであった。
 大変興味がありながら、恐れ多くて近寄れなかった分野なので、これを機にちょっとだけでも足を踏み入れてみたいと思った。

宍倉佐敏氏講演会 「文字を記し、古くから伝わる和紙」

 『必携 古典籍・古文書料紙事典』(2011年7月 八木書店)の刊行を記念して、著者である宍倉佐敏氏の記念講演会が開催されたので参加した。

演 題:「文字を記し、古くから伝わる和紙」
講演者: 宍倉佐敏氏(繊維分析研究者/宍倉ペーパー・ラボ)
場 所: 東京堂書店神田神保町本店6階

 料紙について全く知識がないので、非常に勉強になった。江戸時代の料紙の特徴、なぜ江戸時代の紙に虫食いが多いのか、使っている紙によって、その人間の地位や教養、経済力が分かるという話、信長・秀吉・家康がどのような紙を使っていたか等々。また、西鶴は話の内容によって料紙を使い分けている、というのも興味深かった。ちょっと考えてみたい内容である。
『奥の細道』についても少しお聞きした。

 ところで、本を執筆された動機は後継者問題だという。「おわりに」でもこう述べられている。

 以上の調査研究の時に、多くの人々に指摘されたのは後継者問題であった。私の培ってきた製紙技術全般の後継については、育った環境の違い・好みや性質などに加え、時代の変化もあり、現在の日本における利潤追求型の企業や大学では、繊維分析などの基礎研究をする人の養成は難しい。また、私はほぼ独学で植物繊維の研究をはじめたため、後継者の育成法を知らないということも、育たない要因の一つとも思う。(略)後継者が現れることを切に願っている。451頁

 職人技が消えかかっているのは、いずこも同じなのである。

 最後に本の中で紹介されている素晴らし言葉。

 和紙は千年、洋紙百年

和紙の耐久性は極めて高いのである。

林良祐『世界一のトイレウォシュレット開発物語』(朝日新書)

林良祐『世界一のトイレウォシュレット開発物語』(朝日新書)を読む。

「おしりを洗って30年」という魅力的な帯が付いている。

肛門の位置はどこか?
おしりに当たって快適に感じる温度は何度か?
そのお湯をどの角度で当てるか?

著者達は自分自身の「おしり」を以て1日16時間交代で実験を繰り返し、ついに「黄金律」を導き出した。

お湯の温度38度、便座の温度36度、乾燥用温風50度、ノズルの角度は43度。
さらに、おしり洗浄の43度に対して、ビデ洗浄は53度。ノズルの噴出口は、おしり洗浄3穴、ビデ洗浄5穴。

その他にも多くのエピソードが語られている。苦労の中にも楽しさと充実感に溢れた本である。開発につきものの、他からのヒント、例えば信号機や車のアンテナにヒントを得て開発されたものについても言及されている。

本書で語られているのは、新しい「もの」づくりの開発物語であるが、この「もの」とは「文化」であると著者はいう。

 実は、TOTOが目指すものに「文化をつくり出す」ということがある。
 最新の技術によって、人々の暮らしを快適にする精進を開発してきたわけであるが、単に「困った」を解消するだけなら、それは「手段」でしかなく、文化の創造までには至らない。40頁

「私はTOTOに入社して、ものをつくり、文化をつくるとはどういうことなのかを徹底的に学んだように思う」という著者は、技術者に対し次のようなメッセージを送っている。

 シャワーだけ作っても、「ライフ」が変わるまではいかない。シャワーを使ってどんな生活がしたいのか。それを支える技術とはいかなるものか。技術者はそこまで考えて新しい技術を生み出すべきだと私は考えている。49頁

ものづくりの現場はこの20年で大きく変化したという。
著者の駆け出しの頃は、予算不足で実験用の試作品を自分で作らなければならないときがあり、どうやって作るか考えていると、「作るなんて10年早い、まず掃除や」と言われた、という。それが、

遠回りはあるけれども、時間があるのなら、こうしたアプローチのほうが正しい、と思う。それが技術者にとっての財産になるからだ。54頁

それに比べて現代は、「スピード感はあるが、その「知識」は非常に薄いものと言わざるを得ない」という。

ハードな修行時代、心が折れそうになっても、くじけることがなかったのは、その技術を使って、それまで世の中になかった商品が生まれ、流通していくということの面白さを実感したからだろうと思う。55頁

アメリカでの苦労話も実に興味深い。

アメリカにやってきて、私はいかに、これまでの自分が驕っていたのかを知った。(略)これまでは技術者同士でしか話をしてこなかった(コミュニケーションをとってこなかった)ことにも気がついた。(略)「自己の力を高めない限り、ここではまったく通用しないんだ」
 私は「成長」を目標に掲げた。74頁

また日本の強みである「現場の底時力」についてはこう語られている。アメリカで買い取った工場は、

 足の踏み場もないほど荒れ、従業員はラジカセから大音量の音楽を流して作業をしていた。とても統率がとれているとはいえなかった。
 ここに、(略)TOTOのものづくりの精神を注入し、工場の再生に取り組んだのである。そしてわずか1年で、ゴミひとつない工場へと変化した。(略)ひとえに、現場を変えることができたのは、現場を任された人間の推進力、本当の底力だった。83頁

さて、全く新しいものを作るためには、それまでの「常識」を壊さなければならない。

 私たちが最初に取り組んだのは、デザイナーの意識を変えることだった。(略)デザイナー自身が「ウォシュレットとはこうあるべき」という、「常識」にとらわれ、ブレーキをかけていたのである。103頁

まさに「Stay foolish」である。

2005年9月、1泊2日の合宿会議、アイデア検討会議「夢会(夢を見る会)」が開催された。「夢を持って仕事をしよう」というその会議で、「さらなるグローバル展開を見据えて」、「日本らしさ、日本人らしさとは何か」が話し合われたという。「日本のメーカーとして世界に打ち出すトイレのデザインとはどういうものか」という訳である。
そこで出て来たのは、

自然とともに生きて生きた日本人は、美しさを瞬間的に心に富める繊細な感性を日常的に育んできた。真の「気持ちのよい空間」とは、五感すべてが気持ちよいと感じて成り立つ。129頁

「禅寺の美しく掃き清められた庭」のような「静かな存在感」。いいですねぇ。グローバル展開するためには、日本の良さを徹底的に追究すべきだと私も考えているのであるが、TOTOのようなメーカーがそれを具現化して下さるととても有り難い。

それにしても、「サイボン式」「サイボンゼット式」「フラッシュバルブ式」「シーケンシャルバルブ式」等々、いろいろあることを知って驚いた。しかし一番驚いたのは1秒間に70回以上の脈動を与える「ワンダーウェーブ洗浄」である。まさしくワンダーだ。こんなことを知ってしまったからには、ノズルから噴射される水を見たくなるし、トイレでの水の流れ方をよくよく観察したくなってしまうというものである。これからは心してお尻を洗い、心して流さねばなるまい。

ノズルが清潔だと言い張るのなら、舐められますか?156頁

これまた厳しい言葉である。がこれは、一般使用者ではなく、女性開発担当者の言葉である。もちろんこの声に応えるべく、10年かけて新しい方式が開発された。

技術的問題などで、なかかな採用されなかったのだ。しかし研究者はあきらめることなく、これがノズル洗浄に使えると、ひそかに社内のウォシュレットにつけて検証を続けていた。そして10年がたち、きれいなノズルのデータを見せながら、「信用して下さい」と主張した。159頁

著者はこれを「開発者の「意地」」と言っている。

おしり洗浄の水で目を洗えますか?160頁

これはビデ洗浄に関しての、やはり女性開発者の言葉である。当然これにも答えるべく新しい技術が開発されたのである。

世界一のトイレを作る。その夢と誇りにあふれた本である。

補足)
50頁に、職人さんの試作品と量産化の問題が語られていて、これも興味深い。著者が考えているのはあくまで量産である。

人間の感性に対するリスペクト~クローズアップ現代「世界を変えた男 スティーブ・ジョブズの素顔」

 NHKクローズアップ現代「世界を変えた男 スティーブ・ジョブズの素顔」を見た。

 前刀禎明さんがジョブズのやり方をこう語っておられた。

この商品、この製品はこんな機能があってこんなことができますよ」ではなくて、あくまでも「人々がそれをやって嬉しいかどうか」ということが重要なんですね。

 いい言葉である。
 私は、今乗っている車を買うとき、二つのディーラーに行った。まず日本メーカーが立ち上げたばかりの高級ブランドのディーラーに行った。買う気はなかったのだが、新聞に「最高級のサービスを体感して下さい」と試乗会の宣伝が出ていたので、体験させてもらおうと思ったからだ。説明した下さった方は、この車は「何が出来るか」、いかに最先端技術が満載されているかを熱心に力説された。
 これがそのブランドやその方の特殊な傾向ではないことは、後日その親会社の方が勤務先に講演に来られたときに分かった。その方が語られた未来の車は、まさしく最新技術が満載されていて、「こんなことも出来たら楽しいですね」、「あんなことも出来たら楽しいですね」、というお話だったからである。「快適さ」とは、最新技術の謂いだった。

 さてその後、もう一つのディーラーへ。対応して下さった方は、車の機能の話は全くされず、いかに自分がこの車を愛しているか、この車を運転しているときにどのくらい幸せ感が得られるかだけを楽しそうに話された。

 運転していて、すっごく楽しいんですよぉ~。 この空間が、とっても気持ちいいんですよぉ~

って。
 私が分かったのは、この方がとてもこの車を愛しているということだけであった。そして買うことにしたのである。
パンフレットを見て驚いた。「キーをささなくてもリモコンでロックと解除ができます」と自慢げに書いてあったからだ。そんなの今時どの車でもできるんじゃないのぉ~??? さっきのディーラーの車は、キーをポケットに入れたままでいいと言ってましたけど……。しかもキーがめちゃくちゃデカい。さらに追い打ちをかけるように、

 ドアミラーもあんまり開閉していると壊れるかも知れないので、私は閉じません。

って言われたし。
 そして私は理解したのである。それぞれの方が「大切にしているもの」が違うのだということを。そしてどちらを買うかということが、自分が何を大切に生きるのかという選択であるということを。

 クローズアップ現代に話を戻す。
 福田尚久さんがこういうエピソードを披露された。

 アップルストアを開くとき、本社近くの倉庫の中に実物大のお店を何度も何度も作った。そのとき、テーブルのウッドの素材など一つ一つにこだわった。ドアノブを作るだけでも何億円かかかっていると思う。それくらいの数の試作を延々と続けた。

 ドアノブ。そういえばこの前、尚志館メンバー食事会で、「世界一気持ちいいドアノブ」の話をしたのを思い出した。私が建築の院生に、「「世界一気持ちいいドアノブの研究」って学会で発表できるの?」と聞いたのである。一日に何度も触れ、家に帰ってきた時に最初に触れるドアノブ。これがとても気持ちよくって「家に帰ってきた幸せ感」が感じられたら、そんな家はとてもいいのではないか。だったら、家を設計する人はそれを研究すべきではないか。そして学会で「世界一気持ちのいいドアノブ」の研究があってもいいじゃないか。

 尚志館メンバーの食事会だったので、それを契機に話は盛り上がったのだが、授業でこういう話をしたら、ある学部生に、

先生はそういうの感じるかも知れないけど、普通の人は感じませんよ。今の世の中大切なのは、効率とコストですよ。

と言われた。高専でそういう「勉強」をしてきたのだろう。しかし福田さんはジョブズの哲学をこう説明されたのである。

絶対にお客さんは分かってしまう。分かるから最善をつくさなきゃいけないんだ。人間の感性に対しての、人間に対してのリスペクトなんですよね。

 人間(の感性)に対するリスペクトを欠いたものづくりは空しい。先の学生も、ほんとうはそのリスペクトを失ってはいない。なぜなら私の授業を選択しているということは、そういうことにほんとうは関心があるということなのである(でなければ私の授業は苦痛でしかない)。彼が私に先のように言ったとき、彼の中で何かが動き出したに違いない。私はそれを信じて疑わないのである。
「表現」という行為はそういう力を持っているからである。

選択授業の選択

 先週から後期の授業が始まって、履修登録はまだ締め切られていない。締め切りまで2回ほど授業がある。私が大学生の頃も同様のシステムになっていた。1回めに授業に出てみたものの、やっぱり別の授業がいいということがあるからである。当時はシラバスなどは形ばかりのもので、何年も前のまま、しかも2行程度のものが普通だった。シラバスなんて書かない先生もたくさんいた。だから1回目の授業に出ないと、その授業で何をやるのかさえ分からなかったのである。
 しかし、私と私の周りの友達は、2回めから出る授業を変更することはほとんどなかった。だいたいなんとなくの情報はあったし、自分の直感で、なんとなく面白そうな授業をとったからである。もちろん失敗もしたが、それはそれで得るものも多かった。

 それに比べれば、今は、毎回の授業内容や達成目標、評価基準などが明記されている。各段の情報量なのであるが、年々、2回目からの移動が増えているような印象である。私の授業からいなくなる学生もいれば、2回めからやって来る学生もいるのであるが、その数が多いのである。これは、

 可能な限りの情報を集めて、比較検討した上で、間違いのない選択をしたい。

 というマインドの現れだと思う。2、3年前に聞いた話では、友達で手分けして授業に出て、後で情報を持ち寄って検討するという強者もいるらしい。何をそれほど真剣に検討しているかというと、その授業が自分の将来にいかに役立つかということである場合もあるだろうし、どれが一番楽に単位をとれるかという場合もあるだろう。そのあたりは知らん。

 今日の授業でも、先週はいなかった学生が朝の挨拶で、

 今、履修登録期間中なので、どの授業をとるかをのんびり決めています(ので今日はこの授業に来ました)。

という学生がいた。今日はもう2回めの授業なんですけど……ね。みなさんにそこまで真剣に検討していただけるとは、教師名利に尽きるというものである。しかし私の経験からいうと、そうやって受講をお決めになった学生が、なんとなく面白そうだと思って(さしたる動機もなく)最初からいた学生より、より熱心に、より真剣に授業に打ち込んでくれる確率は極めて低いのである。

 「なんとなくの直感」を信じましょうよ。少なくともそこには自分がこれまで生きてきた人生が詰まっているのだから。
それが信じられなくなると、情報を集めて比較検討したくなるのであるが、でも結局最後に決断するのは自分の「なんとなくの直感」によってでしかないんだから。

 あくまで私の印象でしかないが、2回め以降移動する学生が増えているのだとすると、この「なんとなくの直感」を信じられない学生が増えてきているということなのだろう。

 そういう話をたまに学生にすると、「でも後悔したくない」と言う。少なくとも可能な限りの情報を集めて、しかるべき根拠をもって決めたら、失敗したときにショックが小さいのだそうだ。ほんとうかな? それって、失敗したとき、自分の外の何かのせいにできるということなのではないのかな。それによって自分を守ることができるということなのか? 変なの。

 しかし残念ながら、後悔するかしないかの分かれ目は、どれを選択するかということ自体にはほとんどないのである。授業なら、その授業の半年間を自分がどう過ごしたかにかかっているからである。

 先日NHKのETV特集で、「名物社長の採用面接~中国水ビジネスの風雲児」という番組をやっていた。面白いことがたくさんあったのだが、今回の話題でいうと、

 うちに来てくれるなら内定を出したい。

という社長に対して、

 御社が第一志望ではあるけれども、他にもまだうけているところがあるので、全部出揃ってから検討したい。

と答えた学生が何人もいたことである。それでも決断を迫る会社に対し、ある者は辞退し、ある者は入社を決断した。

 これって、選択の授業を決めるときのマインドと全く同じである。もちろん気持ちは分かる。しかしその選択がよかったかどうかは、その時点では分からないし、ずっと先にも結局は分からない。ただ分かっているのは、なんとなくでも決めた以上、自分はその人生を歩む以外にないということである。

 答えは選んだ道自身にはない。その道を自分がどう歩いたかということの中にある。

 そのために学生諸君、選択授業の選択は、もっとシンプルに、「なんとなくの直感」ですぐに決めてくれたまえ。でないと本格的に授業に入るのが、ずいぶん遅くなってしまうのだよ。頼む。ね。

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