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2012-06

武道部合宿2日め

武道部合宿in田原 2日め。

午前中は変則で、体育館の片面を使って、撃砕特別講習会を行った。
いきなり、海に向かって、

ヤッホー~~~
と、声出し練習。

その後はいつものように、楽しく撃砕?を稽古した。

午後からは全体稽古。
とてもいい空気で稽古できた。


お客さんも…

最後の基本は最高だった。

これまでで最高の合宿が無事終了。


打ち上げも盛会

この合宿の成果は、7月の演武会で発揮してくれるはずである。
ぜひみなさん、楽しみにしておいて下さい。

幹事さんも、ご苦労様でした。

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武道部合宿1日め・尚志館昇段審査

6月9日、10日。
武道部合宿in田原

合宿場所に到着すると、バカンスに来ていた女性がお出迎えしてくれた。


帽子とストールがいいですね

海の見える体育館。
素晴らしい環境である。


マシューもポーズ


ヌンチャクを構える謎の女

午後からは合宿所を後にして尚志館へ。
残ったメンバーで合宿は続く。

さて、尚志館は昇段審査。

みなとても上達している。
ほんとうに素晴らしい。
とても嬉しく思った。

尚志館の子どもたちを見ていると、私は子どもたちを、そして人間を心から信じることが出来るのである。
この子たちが、私に、人間を信じるとはどういうことかを教えてくれているのだと、心から思った。

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自分の根っこの想いにうそをつかない

日本語コミュニケーション論の授業。

テキストは山田ズーニーさんの『あなたの話はなぜ通じないのか』(ちくま文庫)を使っている。この本の基本スタンスに共感できるからである。

コミュニケーションとは相手との間に共感の橋を架けようとする努力のことである。そしてそれは自由を勝ち取るための戦いでもある。そういう意味のことが説かれている。全くその通りだと私も思う。そしてズーニーさんのコミュニケーション論がいいのは、「自分の根っこの想い(=根本思想)にうそをつかない」ということを死守しているところである。

本書はこの、「自分の想いにうそをつかない」ということを一歩も譲らず考えた。17頁

「自分の根っこの想い(=根本思想)」に嘘をつけば、コミュニケーションの問題はほとんど解決できる。自分が「ほんとう」に伝えたいことが伝わらないから苦しいのであって、そうでない嘘が伝わらなくても悲しくもなんともないからである。逆に、「ほうんとう」に伝えたいことが伝わったと感じられるからこそ嬉しいのであって、嘘が伝わっても気持ちよくもなんともないではないか。

その意味で、コミュニケーションの悩みも喜びも、この「根本思想」が源泉なのである。そして悩みや苦しみや喜びの深さは、自分が掘った「根本思想」の深度と相関している。

自分自身を掘らない表面的なコミュニケーション論を私は必要としていない。私に必要なのは、自分の「ほんとう」と他者の「ほんとう」を共有させることができるコミュニケーション論なのである。

自分の想いで人と通じ合う、それがコミュニケーションのゴールだ。25頁

他にも「問い」の問題、「決め」の問題など、本書には大切な問題がたくさん説かれている。


コミュニケーションの橋、氷山、自分の根っこにダーイブの図。

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海王様の缶

授業終了後、五体治療院へ。

途中高速のパーキングでドラゴンボール仕様の缶ジュースを発見。
代表のために海王様をgetしようと買ってみるが、ついに海王様はご登場にならなかった。
同じのがいくつか出て来たので、もうやめた。
悟空さんと海王様はレアなんだろうなぁ。

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ウィリアム・メレル・ヴォーリズ展 in 高槻

大阪医科大学歴史資料館開館5周年記念(本学創立85周年の節目に)「ウィリアム・メレル・ヴォーリズ展 in 高槻」に行く。


木の向こうに建物が…。


正面に…。


階段…。


階段と窓…。


階段と窓…。


窓…。

パネルがほとんどだったが、思ったより充実した展示だった。探していたものも見つかり、私にとってとても収穫が多い展示だった。

とても幸せ…。

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『アメリカ大都市の生と死』読了

ゼミ。

ジェイコブズ『アメリカ大都市の生と死』(山形浩生訳 鹿島出版会 2010年4月)読了。
この本の魅力はいずれまとめて書きたいと思っている。
とても面白かった。

次回からはジェイコブスシリーズ第二弾、『都市の原理』。
楽しみである。

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正しさを論ずるとは

今日の卒研指導。

初めて論文を書く学生のために、基本的な心構えを説く。

「学問に対する敬意をもって、誠実に論文を書こう!」という話をする。特に自分にとって不都合な資料やデータが出て来たとき、誤魔化さずに、それときちんと向き合って、誠実に論文を書こう、と。もちろん逆に、自分にとって都合のいい資料やデータが出てこないときも同じである。捏造なんてもっての他だ。それさえ忘れなければ、それほどおかしなことにはならないはずである。

自分が発見したことも、自分が考えた理論も、それまでの先人の積み重ねがあってはじめて可能となったことであり、決して自分1人で辿り着いた訳ではない。それなのに、そんな当たり前のことを忘れて、知らないうちに手柄争いをして、「自分が、自分が」となるからおかしなことになるのだ。

自分の興味のあるテーマを選び、研究が深まるにつれて、思わぬ発見があったり、いろいろ面白いことが分かってくると同時に、逆に謎も深まる。それが研究の醍醐味である。おそらくこれから研究を始める人も、そういう予感を持っているはずだ。初心忘るべからず。

さらに「正しい」とはどういうことか。「論ずる」とはどういうことか。というお話も少しする。

私たちの論文で扱う「正しさ」は、誰がいつどこで考えても絶対的に正しい(不変)という正しさではない。私たちの研究室で扱っているテーマは、客観的なデータを出せない場合がほとんどである。「定量化できないが大切なもの」に光を当てようとするものだからである。

だから、「正しさ」というのも、その人でなければ言えない「正しさ」のことである。その意味で、「正しさ」の出発点は極めて個人的で主観的なものである。しかしそれは普遍性へと開かれているはずのものでもある。「なるほどその人にそのように言われてみればそのように見える」。そのような正しさである。

「論じる」とは、そのような最初の自分の直観的な「正しさ」を普遍化するために道をつける努力のことである。「誰がそう考えてもそういう道を辿るよね」という道をつけてやることである。それは、読んでくれた人の納得や共感を目指すものであって、決して誰かを論破したり、自分の先見の明や優秀さを示そうとするものではない。

学問は、先人から渡されたバトンを少し前に運んで、次の人に渡そうとする努力の中にある。その努力の中に、自分だけの面白いテーマもあり、研究の醍醐味もあるのである。不誠実なランナーは、先人からのバトンをきちんともらうことができない。先人からのバトンをきちんともらうことができなかったランナーには、研究の醍醐味を味わうことはできないのである。

研究を始めるにあたって、まずはそれを知っておいてほしい。

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ヴォーリズ建築(旧伊庭家住宅)春の特別公開

近江八幡市指定文化財 ヴォーリズ建築(旧伊庭家住宅)春の特別公開に行く。

いろいろ説明して頂きながら見学する。

そしてやはり階段…。

仕上げは当然クラブハリエ
期間限定フルッティが登場。

ダージリンシロップをかけていただきます。
グラスの口にはソルティドッグみたいにシュガーが。

甘ったるくなく、これはとても美味しいです。

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石巻山

少し遡るが、5月31日、授業終了後、体の回復を期して5回めの石巻山へ。もう少しで体が戻りそうな感じである。


途中、倒木が…。


山頂…。

早く体を完全に戻したい。

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雇われなくてもそれをやる

ジェイコブズは、正当派「都市計画者たち」を手厳しく批判するが、その要諦の一つは、彼らには「一般人に対する根深い蔑視が根底にある」というものである。

遊技場や芝生や雇われ警備員や監督者が本質的に小供にとって立派なものであり、通常の人だらけの都市街路が本質的に子供たちに有害だというおとぎ話は、一般人に対する根深い蔑視が根底にあるのです。(『アメリカ大都市の生と死』(山形浩生訳 鹿島出版会 2010年4月 101頁)

これは、子供の遊び場として、歩道のかわりに公園などを用意する都市計画に対して、歩道がいかに安全であり、公園がいかに危険であるかを訴えている箇所である。

歩道が安全なのは、「普通の人」の目があるからである。その目は、「公共的な責任」を負っている目である。いついかなるときでも、仕事でもないのに誰かがそこを見ているのである。一方の公園が危険なのは、そこには雇われ警備員がいるが、彼の目は、仕事の目だからである。雇われた人だけが、雇われた時間だけ、仕事としてそこを監視しているだけなのである。

しかしこの話は、今現にそこを通る人が安全か危険かということに止まらない、もっと恐ろしいことを含んでいる。それは、歩道における「普通の大人たち」が暗黙のうちに子供たちに教える「公共的な責任」のことである。

現実世界では、子供たちが成功した都市生活の第一原則を学ぶのはーーそもそも学べたらの話ですがーー都市の歩道にいる通常の大人たちからだけなのです。その第一原則とは、人々はお互いに何らつながりがなくても、お互いに対し多少なりとも公共的な責任を負わなくてはならない、ということです。102頁

大切なのは、これは言葉で教えられただけでは決して学ぶことができない、ということである。

これを言われただけで学ぶ人はいません。自分とは何の姻戚関係も友人関係も役職上の責任もない人が、自分に対して多少なりとも公共的な責任を果たしてくれたという体験から学ぶものなのです。102頁

そしてもう一つ、この「公共的な責任」は、雇われ警備員には決して教えることができないということである。

こうした都市住居についての指導は、子供の面倒を見るよう雇われた人々には教えられないものです。というのも、この責任の本質というのは、雇われなくてもそれをやるということだかです。それは両親だけでは決して教えきれないものです。(略)こうした指導は社会全体から与えられねばならず、そして都市でそれが与えられるとすれば、それはほぼすべて、子供がたまたま歩道で遊んでいる時間に与えられるのです。103頁

子どもたちの遊び場を歩道から公園や遊技場へ移し、その安全を「普通の大人たち」から「雇われ警備員」へ託したとき、そこに住む大人たちは「公共的な責任」を果たさければならないという都市の文化が壊れ、逆に安全性が脅かされるようになる、そうジェイコブズは主張しているのである。ジェイコブズは「文化」とは言っていないが、文化といって差し支えないだろう。そして一度壊れた文化は、修復するのにとても時間がかかる。いや、ひょっとしたらもう元には戻らないかも知れない。

ジェイコブは、「都市計画者たち」が計画する都市が、斬新でないとか、美しくないとか、計画者のオリジナリティーがないとか、理論的に整合性がないとかと言っているのではない。彼らによって計画された都市は、「一般人に対する根深い蔑視」を根底にもつゆえ、人間の文化を破壊し、普通の生活を破壊すると言って怒っているのである。

ジェイコブズがこれを訴えてから50年。状況は改善されたのだろうか。もしそうでないなら、都市計画や建築が一体誰のためにあるのか。私たちはそれをもう一度考えなければならない。

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