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中森康之ブログ

『アメリカ大都市の生と死』読了

ゼミ。

ジェイコブズ『アメリカ大都市の生と死』(山形浩生訳 鹿島出版会 2010年4月)読了。
この本の魅力はいずれまとめて書きたいと思っている。
とても面白かった。

次回からはジェイコブスシリーズ第二弾、『都市の原理』。
楽しみである。

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正しさを論ずるとは

今日の卒研指導。

初めて論文を書く学生のために、基本的な心構えを説く。

「学問に対する敬意をもって、誠実に論文を書こう!」という話をする。特に自分にとって不都合な資料やデータが出て来たとき、誤魔化さずに、それときちんと向き合って、誠実に論文を書こう、と。もちろん逆に、自分にとって都合のいい資料やデータが出てこないときも同じである。捏造なんてもっての他だ。それさえ忘れなければ、それほどおかしなことにはならないはずである。

自分が発見したことも、自分が考えた理論も、それまでの先人の積み重ねがあってはじめて可能となったことであり、決して自分1人で辿り着いた訳ではない。それなのに、そんな当たり前のことを忘れて、知らないうちに手柄争いをして、「自分が、自分が」となるからおかしなことになるのだ。

自分の興味のあるテーマを選び、研究が深まるにつれて、思わぬ発見があったり、いろいろ面白いことが分かってくると同時に、逆に謎も深まる。それが研究の醍醐味である。おそらくこれから研究を始める人も、そういう予感を持っているはずだ。初心忘るべからず。

さらに「正しい」とはどういうことか。「論ずる」とはどういうことか。というお話も少しする。

私たちの論文で扱う「正しさ」は、誰がいつどこで考えても絶対的に正しい(不変)という正しさではない。私たちの研究室で扱っているテーマは、客観的なデータを出せない場合がほとんどである。「定量化できないが大切なもの」に光を当てようとするものだからである。

だから、「正しさ」というのも、その人でなければ言えない「正しさ」のことである。その意味で、「正しさ」の出発点は極めて個人的で主観的なものである。しかしそれは普遍性へと開かれているはずのものでもある。「なるほどその人にそのように言われてみればそのように見える」。そのような正しさである。

「論じる」とは、そのような最初の自分の直観的な「正しさ」を普遍化するために道をつける努力のことである。「誰がそう考えてもそういう道を辿るよね」という道をつけてやることである。それは、読んでくれた人の納得や共感を目指すものであって、決して誰かを論破したり、自分の先見の明や優秀さを示そうとするものではない。

学問は、先人から渡されたバトンを少し前に運んで、次の人に渡そうとする努力の中にある。その努力の中に、自分だけの面白いテーマもあり、研究の醍醐味もあるのである。不誠実なランナーは、先人からのバトンをきちんともらうことができない。先人からのバトンをきちんともらうことができなかったランナーには、研究の醍醐味を味わうことはできないのである。

研究を始めるにあたって、まずはそれを知っておいてほしい。

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ヴォーリズ建築(旧伊庭家住宅)春の特別公開

近江八幡市指定文化財 ヴォーリズ建築(旧伊庭家住宅)春の特別公開に行く。

いろいろ説明して頂きながら見学する。

そしてやはり階段…。

仕上げは当然クラブハリエ
期間限定フルッティが登場。

ダージリンシロップをかけていただきます。
グラスの口にはソルティドッグみたいにシュガーが。

甘ったるくなく、これはとても美味しいです。

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石巻山

少し遡るが、5月31日、授業終了後、体の回復を期して5回めの石巻山へ。もう少しで体が戻りそうな感じである。


途中、倒木が…。


山頂…。

早く体を完全に戻したい。

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雇われなくてもそれをやる

ジェイコブズは、正当派「都市計画者たち」を手厳しく批判するが、その要諦の一つは、彼らには「一般人に対する根深い蔑視が根底にある」というものである。

遊技場や芝生や雇われ警備員や監督者が本質的に小供にとって立派なものであり、通常の人だらけの都市街路が本質的に子供たちに有害だというおとぎ話は、一般人に対する根深い蔑視が根底にあるのです。(『アメリカ大都市の生と死』(山形浩生訳 鹿島出版会 2010年4月 101頁)

これは、子供の遊び場として、歩道のかわりに公園などを用意する都市計画に対して、歩道がいかに安全であり、公園がいかに危険であるかを訴えている箇所である。

歩道が安全なのは、「普通の人」の目があるからである。その目は、「公共的な責任」を負っている目である。いついかなるときでも、仕事でもないのに誰かがそこを見ているのである。一方の公園が危険なのは、そこには雇われ警備員がいるが、彼の目は、仕事の目だからである。雇われた人だけが、雇われた時間だけ、仕事としてそこを監視しているだけなのである。

しかしこの話は、今現にそこを通る人が安全か危険かということに止まらない、もっと恐ろしいことを含んでいる。それは、歩道における「普通の大人たち」が暗黙のうちに子供たちに教える「公共的な責任」のことである。

現実世界では、子供たちが成功した都市生活の第一原則を学ぶのはーーそもそも学べたらの話ですがーー都市の歩道にいる通常の大人たちからだけなのです。その第一原則とは、人々はお互いに何らつながりがなくても、お互いに対し多少なりとも公共的な責任を負わなくてはならない、ということです。102頁

大切なのは、これは言葉で教えられただけでは決して学ぶことができない、ということである。

これを言われただけで学ぶ人はいません。自分とは何の姻戚関係も友人関係も役職上の責任もない人が、自分に対して多少なりとも公共的な責任を果たしてくれたという体験から学ぶものなのです。102頁

そしてもう一つ、この「公共的な責任」は、雇われ警備員には決して教えることができないということである。

こうした都市住居についての指導は、子供の面倒を見るよう雇われた人々には教えられないものです。というのも、この責任の本質というのは、雇われなくてもそれをやるということだかです。それは両親だけでは決して教えきれないものです。(略)こうした指導は社会全体から与えられねばならず、そして都市でそれが与えられるとすれば、それはほぼすべて、子供がたまたま歩道で遊んでいる時間に与えられるのです。103頁

子どもたちの遊び場を歩道から公園や遊技場へ移し、その安全を「普通の大人たち」から「雇われ警備員」へ託したとき、そこに住む大人たちは「公共的な責任」を果たさければならないという都市の文化が壊れ、逆に安全性が脅かされるようになる、そうジェイコブズは主張しているのである。ジェイコブズは「文化」とは言っていないが、文化といって差し支えないだろう。そして一度壊れた文化は、修復するのにとても時間がかかる。いや、ひょっとしたらもう元には戻らないかも知れない。

ジェイコブは、「都市計画者たち」が計画する都市が、斬新でないとか、美しくないとか、計画者のオリジナリティーがないとか、理論的に整合性がないとかと言っているのではない。彼らによって計画された都市は、「一般人に対する根深い蔑視」を根底にもつゆえ、人間の文化を破壊し、普通の生活を破壊すると言って怒っているのである。

ジェイコブズがこれを訴えてから50年。状況は改善されたのだろうか。もしそうでないなら、都市計画や建築が一体誰のためにあるのか。私たちはそれをもう一度考えなければならない。

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罰金制度を設けたら文化が崩壊した

28日のスーパープレゼンテーション(Eテレ)の一つ、
クレイ・シャーキー「”知力の余剰”が世界を変える」Clay Shirky: How cognitive surplus will change the worldで紹介された保育園のお迎え遅刻の話がとても面白かった。

ニージーとルスティチーニの論文にあるグラフとして紹介された「抑止論」の検証結果である。

イスラエルの10の保育園の「お迎え時間」の親の遅刻。1保育園あたり週に6~10人が遅刻していた。そこで、10分以上遅れたら10シェケルの罰金を与えることにした。するとすぐに変化が現れた。導入から4週間、遅刻は増え続け当初の3倍に達し、その後は2倍と3倍の間を上下したという。この結果は、単純に「違反行為を抑止するには罰を与えればいい」とは言えないということを示しているが、この現象についてClay Shirkyはこう述べている。

罰金制度を設けたことで、保育園の文化が崩壊したのです。

「お金で解決できる問題だ、という空気になってしまった」と。「20世紀における人間行動の研究によると、我々は皆、合理的かつ自己中心的なのだ」そうだが、しかし「罰金がなかった頃、決してやりたい放題ではなかった」。

そしてさらに恐ろしいことに、実験が終わり、罰金制度撤廃後も状況は変わらなかったのである。

一度崩壊した文化は元には戻らなかった。

金銭的動機と内因性動機は相性が悪く、不一致が生じると修復には時間がかかるのです。

犯罪行為を抑止するのは、警備員や管理人ではなく、そこに住む多くの普通の人々の公共意識の目である、と指摘したのはジェイコブズである。そしてその中で育った子どもは、大人になったとき、自らもその役割を果たすようになると。これが文化である。この本質は、ジェイコブス風に言うと「罰則がなくてもそれをやるという公共的な責任」である。私たちはもう少し、人間のもつ「公共的な責任」というものを信てよいのではないだろうか。

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第8回演武会にむけて

第8回武道部演武会が、7月15日(日)に開催される。
現在武道部では、それにむけて、プログラムの検討や稽古が行われている。
いよいよ6月2日(土)はリハーサルである。

これまでと違うのは、私がほとんどタッチしていないということである。稽古にもフルには参加していない。実行委員長を中心に、学生たちが自分たちで考えてやっている。もちろん演武の指導は行うが、運営に関しては完全に学生だけでやっているし、演目も自分たちで決めたものである。

演武のひとつひとつを最終的に仕上げるのは、私と絵実子さんの責任である。学生たちがそこまで頑張ってくれたものについて、最大限の力を引き出したいと思っている。

演武会は私の夢である。
そして、演武会を学生だけでやってくれるのが私の夢である。

今年はその夢が叶いそうで、嬉しい。

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国文学1の授業、これでいいのだ

今年の国文学1の授業にちょっと異変が起こっている。
例年、本を読むのが大好きな学生が2~3名はいるものの、それ以外の学生はこの授業を機会に本を読んでみようという学生であった。ところが今年は、異常な本好きがほとんどなのである。しかもディスカッション中、ほとんどの学生が積極的に議論に加わる。とても明るいディスカッションが展開されている。

どうなってんの??

本をほとんど読まない学生や、コミュニケーションが苦手な学生はどこに行ってしまったのだろうか?

しかもその日の本をきっかけに、私がどんどん脱線していっても、誰も文句を言わず、乗ってくれる。だからさらに話が膨らんでゆくのである。もはや国文学の授業でなくなってしまっている感がある。この前も、一見その日の本の内容にほとんど触れずに終わってしまった。しかし確実にその本の内容の核心から膨らんでいった議論が展開された。私としては理想的な授業なのであるが、みんなもそれを楽しんでくれているようだ。昨年までだと、「授業に関係のない話が長すぎる」とアンケートに書かれそうなものだが、今年はどうだろう?別にどうでもいいので、毎回ノリノリで私は話し続けているのである。

次回からはそれぞれが自分のお気に入りの本を紹介するので、濃厚な議論が展開されることだろう。彼らについていけるだろうか。わたくし……。

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竹田青嗣の吉本隆明追悼文

3月16日に吉本隆明さんが亡くなったとき、ひとことだけブログに書いた。

それ以来、私の中で感覚をしばらく寝かせていたのだが、ほぼ2ヶ月半が過ぎて、竹田青嗣師匠の追悼文「正しさから見放される体験」(『群像』2012年5月)を読んだ。

心震えた。
自分の個人的な吉本体験、吉本思想の核心、吉本の思想史的位置づけ、吉本思想の現代的意義。僅か2頁の中に、追悼文に必要なものが全部、静かに深く、かつ正確におかれている。そして、そのことによって「吉本隆明とは何であったのか」が鮮明に描かれている。

文章を読んでこれほど感動したのは久しぶりである。吉本さんの追悼文は数多く書かれている。「最高の追悼文」は、それぞれの吉本観によっていくつもあるだろう。しかし、今、これほどの追悼文を書けるものかきを、私は他に知らない。敢えていえば、性質は全く異なるが、加藤典洋さんくらいだろう。加藤さんのはまだ読んでいない。加藤さんのと橋爪大三郎さんのは、これからゆるりと読みたい。

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お墓参り

久しぶりに父親のお墓参りに行った。

途中泰斗武館により、こちらも久しぶりにちょっと稽古に参加した。
小野くんもいて楽しく稽古できた。

墓参り。
私には、失ってはじめて、自分にとってそれがかけがえのないものだったことに気づいたことがたくさんある。私は馬鹿だから失わないと気づかなかったのである。

果たして私は学習したのだろうか。

今でもまだ、ほんとうに大切なものを粗末に考えているのではないだろうか。

失う前に気づきたい。

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