中森康之ブログ
尚志館審査&歓送会
尚志館審査。
全員無事合格。
今回は全員子どもであったが、みんな確実に上手くなっている。見ていてとても嬉しかった。このままコツコツと継続して努力してほしい。
尚志館は試合にも出ないし、当然試合用の稽古もしない。始めた当初は、最近の人(特に子ども)は試合などで短期的なモチベーションを与えないと続かない、それでは道場生が集まらない、とさんざん言われた。しかし、一緒に稽古したいという人(子ども)がいれば一緒に稽古するし、1人もいなければ道場を閉じるまで、という考えを大懸絵実子館長は変えなかった。
道場生は、ただ週に1回集まって一時間半稽古するだけである。それを何年も続けている。
さて、その尚志館には、武道部員の有志が指導補助に来てくれている。そのうち、池尾くん、幸美さん、小野くんの3人が今年で大学院を修了する。そこで、歓送会が行われた。
絹さやさん
集合写真
せいろ蒸し
絵実子館長からプレゼント
知里さんから手作り熊さん人形のプレゼント
3人とも本当に一所懸命子どもたちを指導してくれた。彼(女)らがいなければ今の尚志館はない。心から感謝したい。
それと同時に、3人にとっても尚志館での経験はとても貴重なものとなったと思う。学生時代にこのような経験ができたことは、3人にとって貴重な財産となるはずである。
また来てね。
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吉本隆明さん
- 2012-03-16 (金)
- 日記
16日午前2時すぎ、吉本隆明さんがお亡くなりになった。
私は吉本さんに大きな影響を受けた世代ではないし、個人的にもそうではない。
悲しみと喪失感は大きい。
心よりご冥福をお祈り致します。
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祝!第4回ものづくり日本大賞(内閣総理大臣賞)受賞
- 2012-03-15 (木)
- 日記
「人間力」養成プロジェクト(豊橋技術科学大学高専連携教育研究プロジェクト)のメンバー、三崎幸典先生の香川高専詫間キャンパスのプロコンチームが第4回ものづくり日本大賞(内閣総理大臣賞)を受賞した。三崎先生が実施責任者を務める大学教育推進プログラムの活動の一つである。
http://www.kagawa-nct.ac.jp/topicsfile/20120221183634_1.html
三崎先生は、既に自らが率いるロボコンチームで第2回ものづくり日本大賞(内閣総理大臣賞)を受賞している。
つまり、現代GPで第2回、大学教育推進プログラムで第4回の、ものづくり日本大賞(内閣総理大臣賞)を受賞されたことになる。大変素晴らしい。
その最終報告会が3月22日(木)に予定されている。私も記念講演にお招き頂いている。
詳細はまた改めてお知らせします。
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うまくできて当たり前なんでしょうな。
- 2012-03-14 (水)
- 日記
このブログの最初期に「私の人生の書」として紹介した『木のいのち 木のこころ』(新潮文庫)での西岡常一棟梁の言葉。自省を込めて紹介しておきたい。
そうですか、小川が私に一度も褒められたことがないって言ってましたか。おじいさんも私のこと、一回も褒めてくれませんでしたな。怒るのは怒るんでっせ。口やかましい人だったですよ。しかし褒めませんでしたな。(97頁)
うまくできて当たり前なんでしょうな。……学校と違って、百点を取ったら偉いというのとは違いますのや、仕事は。百点を取るのが当たり前なんです。それと学校の先生と生徒みたいな関係とも違いますな。百点を取らせるために先生が頑張るということはないんです。
褒めて励ますというのはあるんでしょうが、褒めておだてて仕事を覚えてもらわなならないことなんて何にもないんです。嫌なら覚えんでもいいんです。仕事を覚えるのは義務教育やないんです。途中で自分はだめやなと思うて辞めていく人はいます。だめやなと思うた時点で、もうあかんのです。その代わり辞めずに、覚えが悪くても覚えようという者にはじっくりつきあいます。だがこのときも、褒めたり、おだてたりはしません。
徒弟制度なら五年の年季のうちに一人前になって、その後一年間、師匠のために働いて恩返しをしますな。早く一人前になるのは自分のためです。一人前というたら百点の仕事をこなすことですわ。それが八十点だったり、五十点ではいかんのです。一人前とはいえないんです。……仕事は結果に出るんです。「この寺は八十点の出来ですから合格です」というて一人前のお金をもらうのは間違っておりますな。そないなわけで褒めるということはないですな。(同)
「これでいいのか、間違ってないか」という気持ちをつねに持つことが大事です。
それと人間というやつは、褒められると、こんどは褒められたくて仕事をするようになります。人の目を気にして「こんなもんでどうや」とか、「いっちょう俺の腕を見せたろ」と思って造るんですな。ところがそういうふうにして造られた建物にはろくなものがないんです。
室町時代に入って道具が進歩してくると、そんな建物がぎょうさん出来てきますのや。華美に走りますな。そのために構造が犠牲になります。本来のするべきことを忘れてしまうんですな。歴史がちゃんと教えてくれてまっせ。(99頁)
そして最後にこうおっしゃっている。
職人は思い上がったら終わりです。ですから弟子を育てるときに褒めんのでしょうな。(100頁)
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頑張った私を褒めてね……
- 2012-03-13 (火)
- essay
結果よりも、頑張ることが大切である。
どうもそういう価値観が蔓延しているような気がする。
事実、小学校や中学校、高校、高専でそう言われてきたという学生もいる。
適当にやった80点より、一所懸命頑張った60点の方がエライ、という訳である。
なるほど一理ある。しかし現実には、この「理」をとらず、多くの場合、
頑張ったこと自体に意味がある。
となってしまっているように思えて仕方がない。さらにそれは、「頑張った私を認めて症候群」となる。「結果が悪かったけど、私は頑張った。その私の頑張りを認めてほしい」と。
それが、「私の頑張りを認めないのは不当だ」という自己主張となる場合はまだましであるが、自分の頑張りが十分に認められていないと感じたとき、つまりは褒めてもらえないと、多くの場合は黙って傷つく。あるいは不安になる。拗ねることもある。そしてそこに何かしらの理屈を付加して変な自己主張をするようになるのである。こうなるとやっかいである。そういう心の構えは、自分を不幸にするだけだからである。なぜならそれが変な理屈であることは、当の本人がほんとうはよく分かっているからである。
少なくとも、私が関わっている武道ともの作りにおいてはそれでは困る。
武道の最終目的は、生き延びることである。
その意味では、頑張っても頑張らなくても、生き延びられれば、どちらでもいいのだ。そして、実はいわゆる「頑張り」は、私たちの心身のパフォーマンスを逆に低下させてしまうことを武道の先人たちはよく分かっていた。だから武道においては、「頑張って」はいけない。いわゆる「頑張る」ことをせず、心身のパフォーマンスを最大化した方が、結果的に生き延びる確率が上がるからである。
稽古においても、頑張りはときとして我流に走ることとなる。きちんとした指導をうけることなく、間違った稽古をがむしゃらに頑張ったら、ろくなことにはならない。間違った方向にどんどん進んで行くくらいなら、何もしない方がましである。
もちろん武道の稽古において、「頑張った私を認めて症候群」になったら大変困ったことになることは言うまでもない。武道の技において大切なのは、出来ているか出来ていないか、つまりは結果だけだからである。
もの作りも同様である。
この家は雨漏りがするけれども、一所懸命作ったのでそれを認めて買って下さい。
とか、
このテレビは音がでないけれども、一所懸命作ったのでそれを認めて買って下さい。
と言っても、誰も買ってはくれない。
100点満点のものしか製品として出せない。プログラムなどでは後でバクが見つかることもよくあるが、しかしあらかじめバグがあることが分かっていて売り出す製品はないはずである。
誤解のないように言うと、私はもの作りにおいて、それを作った人の魂、といって悪ければ「人間力」が重要であると信じている。魂の込められたもの、人間が浮き彫りにされているものを私は愛する。しかしそれは、「頑張った私を認めて症候群」とは無縁の精神である。
私は現代において、武道を学ぶ意味の一つがここにあると考えている。武道の価値観は、現代の風潮とは逆行するものがたくさんある。しかしだからこそそこに光明があると考えるのである。
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鬼に訊け 宮大工 西岡常一の遺言
- 2012-03-12 (月)
- 日記
昨日、映画「鬼に訊け 宮大工 西岡常一の遺言」を見に行った。
到着した頃は良い天気だった
予想以上に面白かった。
西岡棟梁、恰好言いですね。
仕事中の音が素晴らしい。あんまり気持ちよくて、うとうとする人がいたほどである(それほど気持ちいい響きだということですので誤解のないように)。
私も自己満足ではない、ほんまもんの仕事をしたい。
記念撮影
鑑賞後はいつもの如くお茶会(感想会)。
どこのカフェも満席で歩き回ったが、谷君がいい店を見つけてくれた。
二時間ほど感想会をして解散。
お店を出たら雨。
その後、数名で夕食。
最後は谷君と2人で豊橋まで帰った。
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審査・卒業記念ミニ演武会・追いコン
武道部昇級審査。
無事全員合格。
卒業ミニ演武会。
卒業(修了)する学生のためのミニ演武会である。
毎年三部構成で行っていた。「行っていた」というのは、今年はそうではなかったからである。それについては後で述べるとして、三部構成とは以下である。
「安心して卒業して下さい」という思いを込めた在校生演武。
「努力してこういうレベルになりなさい」という思いを込めた卒業生演武。
師範代クラスの社会人や私が、卒業祝い持ちを込めた社会人演武。
今年の在校生演武は、みなが朝稽古をして臨んだらしく、気持ちの入った演武だった。とてもよかったと思う。
卒業生演武も素晴らしかった。卒業生に相応しい、非常に気合いの入った演武だった。とくにほとんど休まず稽古にきた池尾くん、幸美さん、小野くんの演武は、その成果を存分に発揮していた。福元くん、濱口くんも、今の自分にできる精一杯の姿を後輩に見せてくれた。
最後に在校生と卒業生合同での突き。
笑顔で握手
残念ながら社会人演武は今年はなかった。これはほんとうに残念だった。
今年になって、学生主体を強化するため、卒業記念ミニ演武会もすべて学生だけで準備した。演武内容も進行も全てである。だから例年社会人演武があることを部長が知らなかったのかと思っていたら、そうではなかった。知っていてわざと入れなかったのである。「学生が主体となってやるということから、演武も在学生だけでやろうとみんなで決めた」ということである。
私はこれは大変傲慢なことだと思う。主体性を発揮することと傲慢になることととは全く違う。私はともかく、エミコさんやチカサさん、オオガケくんに憧れたり目標にしている学生は多い。卒業生にとって、その憧れの社会人が自分たちのためだけに心を込めて演武してくれるのである。こんな幸せなことはない。おそらく今年の卒業生も楽しみにしていたはずである。社会人の方も、そういう卒業生に、お祝いの気持ちを込めた演武をすることを誇りに思っているはずである。しかし、今年はその機会が奪われた。卒業記念ミニ演武会は、一生に1回しかないので、在学生は、卒業生と社会人から一生その機会を奪ったことになる。主体的に。
社会人演武を入れても、在学生が主体的にやるという主旨は何ら損なわれることはない。それだけに、在学生が、主体的に「外す」ということを選択したのが残念でならない。
私がこれを「傲慢」というのは、卒業生に対するお祝い、あるいは卒業生の気持ちを第一にではなく、「自分たちで頑張る」ことを第一にしているからである。卒業ミニ演武会が主役ではなく、「自分の頑張り」が主役だからである。ここには、自己満足はあっても、卒業ミニ演武会を少しでもいいものにしようという他者に対する配慮の気持ちが欠けている。
ここにあるのは、「自分たちだけで自分たちのできる精一杯をやろう」という気持ちである。何度もいうが、この気持ち自体は大変素晴らしい。しかし、「いくら精一杯やっても、自分たちには出来ないことがある」という謙虚さが欠如しているのである。在学生には在学生演武はできても、社会人演武はできない。当たり前である。いくらいい在学生演武をしたとしても、ミニ演武会全体からいうと、それは三部構成のうちの一部、つまり三分の一に過ぎないのである。もしその三分の一をもって、これまでのミニ演武会の全体を凌駕するのだと考えたのだとしたら、これは傲慢以外の何者でもない。おそらくそこまでは考えなかっただろうが、自分たちが精一杯やった上で、自分たちの出来ない部分について他者の力を借り、全体をよりよいものにしたいという謙虚さも大切だと思うのである。
これは在学生演武自体にも言える。在学生は朝稽古でそれぞれ自分の演目を稽古したらしいが、それをたとえばエミコさんなどに指導してもらうことはほとんどなかったようだ。私のところにも誰も来なかった。自分たちだけで稽古してそれで臨んだのである。まず自分で精一杯やることは大切だ。このことは大切なので何度でも言う。自分ではもうこれ以上できないというところまで努力する。しかしその上で、指導者に見てもらうことはもっと大切である。それをせず、自分で精一杯やったからそれでいいというのは、自己満足に過ぎない(特に空手の型においては)。
一体誰のための卒業ミニ演武会なのか。在学生が自己満足するためのものではないはずである。在学生はとても頑張った。しかし「自分は精一杯やった」という自己満足をえるためのミニ演武会ではないのである。それだけに、いろんな人の力を借りて、自分だけでは到達できないレベルまでミニ演武会をもっていこうという意欲がなかったことがとても残念だったのである。私はあえてこれを「傲慢」だというのである。
夜は追いコン。
いつもの飲み会とも追いコンとも違った、格別のものだったと思う。しみじみしてほんとうにいい追いコンだった。
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講演会・塚本昌彦氏「ウェアラブル・ユビキタスコンピューティングによってかわる未来のくらし~新しいくらしのスタイルを作り出せ~」
学内講演会を聴講。
講 師: 塚本 昌彦 氏(神戸大学教授)
日 時: 平成24年3月9日(金) 13:00~14:30
場 所: A2-201
対 象: 本学の学生および教職員
題 目: 「ウェアラブル・ユビキタスコンピューティング
によってかわる未来のくらし~新しいくらしのス
タイルを作り出せ~」
「暮らしの未来予想25」は同意できるものとそうでないものがあったが、塚本先生自身が非常に個性的な方で、とても面白かった。身体性の重要性を説かれていた点も共感できた。何よりご自身がとても楽しんでおられるのがよくわかった。こういう研究室からどんどん素敵なものが生まれてほしい。きっとそうなんだと思う。
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卒業式
- 2012-03-08 (木)
- 日記
今日は娘の卒業式。
小学校の卒業式は、結婚式に出席するため北海道に行っていたので欠席した。
今回は出席。しかし中日文化センターの講座があるので、式が終わり次第帰らないといけない。終わってから写真を撮っている時間がないのである。
そこで娘と一緒に登校し、先に写真を撮ることにした。
後ろからついてゆく
こんな風景を見ながら登校していたのね
もうすぐ到着
ねえ、ねえ。
なに?
10メートル離れてついてきて女子中学生の写真とってたら、完全に不審者やで~
と娘に注意されながら到着。
校長先生のお話。
帰りは希望の門をくぐって出て行くのである。
さて今日は中日文化センターの「おくのほそ道」も最終回。2年間にわたって講義してきた。こちらも無事終了。終わってからセンターの隣のお店で受講生の方とお茶会。かなり盛り上がりました。
4月からは『方丈記』をやる予定です。
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