武道部昇級審査。
無事全員合格。
卒業ミニ演武会。
卒業(修了)する学生のためのミニ演武会である。
毎年三部構成で行っていた。「行っていた」というのは、今年はそうではなかったからである。それについては後で述べるとして、三部構成とは以下である。
「安心して卒業して下さい」という思いを込めた在校生演武。
「努力してこういうレベルになりなさい」という思いを込めた卒業生演武。
師範代クラスの社会人や私が、卒業祝い持ちを込めた社会人演武。
今年の在校生演武は、みなが朝稽古をして臨んだらしく、気持ちの入った演武だった。とてもよかったと思う。
卒業生演武も素晴らしかった。卒業生に相応しい、非常に気合いの入った演武だった。とくにほとんど休まず稽古にきた池尾くん、幸美さん、小野くんの演武は、その成果を存分に発揮していた。福元くん、濱口くんも、今の自分にできる精一杯の姿を後輩に見せてくれた。
最後に在校生と卒業生合同での突き。
笑顔で握手
残念ながら社会人演武は今年はなかった。これはほんとうに残念だった。
今年になって、学生主体を強化するため、卒業記念ミニ演武会もすべて学生だけで準備した。演武内容も進行も全てである。だから例年社会人演武があることを部長が知らなかったのかと思っていたら、そうではなかった。知っていてわざと入れなかったのである。「学生が主体となってやるということから、演武も在学生だけでやろうとみんなで決めた」ということである。
私はこれは大変傲慢なことだと思う。主体性を発揮することと傲慢になることととは全く違う。私はともかく、エミコさんやチカサさん、オオガケくんに憧れたり目標にしている学生は多い。卒業生にとって、その憧れの社会人が自分たちのためだけに心を込めて演武してくれるのである。こんな幸せなことはない。おそらく今年の卒業生も楽しみにしていたはずである。社会人の方も、そういう卒業生に、お祝いの気持ちを込めた演武をすることを誇りに思っているはずである。しかし、今年はその機会が奪われた。卒業記念ミニ演武会は、一生に1回しかないので、在学生は、卒業生と社会人から一生その機会を奪ったことになる。主体的に。
社会人演武を入れても、在学生が主体的にやるという主旨は何ら損なわれることはない。それだけに、在学生が、主体的に「外す」ということを選択したのが残念でならない。
私がこれを「傲慢」というのは、卒業生に対するお祝い、あるいは卒業生の気持ちを第一にではなく、「自分たちで頑張る」ことを第一にしているからである。卒業ミニ演武会が主役ではなく、「自分の頑張り」が主役だからである。ここには、自己満足はあっても、卒業ミニ演武会を少しでもいいものにしようという他者に対する配慮の気持ちが欠けている。
ここにあるのは、「自分たちだけで自分たちのできる精一杯をやろう」という気持ちである。何度もいうが、この気持ち自体は大変素晴らしい。しかし、「いくら精一杯やっても、自分たちには出来ないことがある」という謙虚さが欠如しているのである。在学生には在学生演武はできても、社会人演武はできない。当たり前である。いくらいい在学生演武をしたとしても、ミニ演武会全体からいうと、それは三部構成のうちの一部、つまり三分の一に過ぎないのである。もしその三分の一をもって、これまでのミニ演武会の全体を凌駕するのだと考えたのだとしたら、これは傲慢以外の何者でもない。おそらくそこまでは考えなかっただろうが、自分たちが精一杯やった上で、自分たちの出来ない部分について他者の力を借り、全体をよりよいものにしたいという謙虚さも大切だと思うのである。
これは在学生演武自体にも言える。在学生は朝稽古でそれぞれ自分の演目を稽古したらしいが、それをたとえばエミコさんなどに指導してもらうことはほとんどなかったようだ。私のところにも誰も来なかった。自分たちだけで稽古してそれで臨んだのである。まず自分で精一杯やることは大切だ。このことは大切なので何度でも言う。自分ではもうこれ以上できないというところまで努力する。しかしその上で、指導者に見てもらうことはもっと大切である。それをせず、自分で精一杯やったからそれでいいというのは、自己満足に過ぎない(特に空手の型においては)。
一体誰のための卒業ミニ演武会なのか。在学生が自己満足するためのものではないはずである。在学生はとても頑張った。しかし「自分は精一杯やった」という自己満足をえるためのミニ演武会ではないのである。それだけに、いろんな人の力を借りて、自分だけでは到達できないレベルまでミニ演武会をもっていこうという意欲がなかったことがとても残念だったのである。私はあえてこれを「傲慢」だというのである。
夜は追いコン。
いつもの飲み会とも追いコンとも違った、格別のものだったと思う。しみじみしてほんとうにいい追いコンだった。