今日の卒研指導。
初めて論文を書く学生のために、基本的な心構えを説く。
「学問に対する敬意をもって、誠実に論文を書こう!」という話をする。特に自分にとって不都合な資料やデータが出て来たとき、誤魔化さずに、それときちんと向き合って、誠実に論文を書こう、と。もちろん逆に、自分にとって都合のいい資料やデータが出てこないときも同じである。捏造なんてもっての他だ。それさえ忘れなければ、それほどおかしなことにはならないはずである。
自分が発見したことも、自分が考えた理論も、それまでの先人の積み重ねがあってはじめて可能となったことであり、決して自分1人で辿り着いた訳ではない。それなのに、そんな当たり前のことを忘れて、知らないうちに手柄争いをして、「自分が、自分が」となるからおかしなことになるのだ。
自分の興味のあるテーマを選び、研究が深まるにつれて、思わぬ発見があったり、いろいろ面白いことが分かってくると同時に、逆に謎も深まる。それが研究の醍醐味である。おそらくこれから研究を始める人も、そういう予感を持っているはずだ。初心忘るべからず。
さらに「正しい」とはどういうことか。「論ずる」とはどういうことか。というお話も少しする。
私たちの論文で扱う「正しさ」は、誰がいつどこで考えても絶対的に正しい(不変)という正しさではない。私たちの研究室で扱っているテーマは、客観的なデータを出せない場合がほとんどである。「定量化できないが大切なもの」に光を当てようとするものだからである。
だから、「正しさ」というのも、その人でなければ言えない「正しさ」のことである。その意味で、「正しさ」の出発点は極めて個人的で主観的なものである。しかしそれは普遍性へと開かれているはずのものでもある。「なるほどその人にそのように言われてみればそのように見える」。そのような正しさである。
「論じる」とは、そのような最初の自分の直観的な「正しさ」を普遍化するために道をつける努力のことである。「誰がそう考えてもそういう道を辿るよね」という道をつけてやることである。それは、読んでくれた人の納得や共感を目指すものであって、決して誰かを論破したり、自分の先見の明や優秀さを示そうとするものではない。
学問は、先人から渡されたバトンを少し前に運んで、次の人に渡そうとする努力の中にある。その努力の中に、自分だけの面白いテーマもあり、研究の醍醐味もあるのである。不誠実なランナーは、先人からのバトンをきちんともらうことができない。先人からのバトンをきちんともらうことができなかったランナーには、研究の醍醐味を味わうことはできないのである。
研究を始めるにあたって、まずはそれを知っておいてほしい。
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