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息子を遠く故郷から思うことしかできない無力で深い母の愛

  • 2012-06-20 (水) 20:19
  • essay

子どものころ、「ただゆき、野菜をちゃんと食べないかんぞな」(名前、方言適当)と、畑の中からお母さんが遠く離れた息子に呼びかけるTVCMがあった。この息子は都会の大学に通うために親元を離れたのだろうか。その息子の健康を心配する母親。しかし母親は、我が子を「思う」こと以外にはほとんど何も出来ない。たまに電話か手紙で、あるいは息子が帰省したとき、「野菜をちゃんと食べなさい」と言い、野菜を持たせることくらいである。後は、遠く離れた故郷で、ただただ息子の無事を祈るのみである。

もちろん大学生くらいの息子なら、そんな母親の気持ちは、わかってはいても、まだまだ余計なお節介に聞こえるだろう。「うるせぇなぁ」と言うかも知れない。しかし都会で1人暮らしをしてみて、母親の有難みは痛いほど感じてもいるのである。

そして、それから何年もたってはじめて、ただただ我が子を「思う」ことしかできなかった母親のその「思い」の有難みが骨身に沁みてくる。自分が子どもを持ってみて、また同じ立場になってみて……。

ところが、そんな我が子を「思う」母親に「朗報」である。我が子が大学の学食で何を食べているのかがインターネットで把握できるサービスが開始されたという(朝日新聞2012年6月12日)。記事にはこうある。

1人暮らしを始めた子どもの食生活は今も昔も、親の心配のタネだ。「うちの子、しっかり食べているかしら」。そんな親心に応えようと、学食で食べたメニューを保護者がインターネットなどで確認できるサービスが広がっている。

信じられない。

このサービスは、親が我が子を思う心を壊し、子どもから、深くて、無力であるからこそ愛おしい親から自分へ向けられた愛情が身に染みる契機を奪ってしまう。このサービスを考えた方は、そのことをほんとうに真剣にお考えになったのだろうか。

親は我が子が何を食べているか分からない。毎日毎日聞くわけにいかない。だからこそ、数少ないチャンスに「野菜を食べなさい」といい、普段はただただ「思う」ことしかできないのである。それがネットで毎日チェックできるとなれば、これはもう監視していることと変わらない。自分が何を食べているかを親が監視してると思いながら1人暮らしを続け、後年、そのときの親の愛情を身に染みて感じる子どもがいるのだろうか。

もちろん昔の母親だって、こんなサービスがあったら喜んで利用したかも知れない。昔の母親だって知りたかっただろうから。しかし、知りたいけれども知ることができないから、「思った」のである。「祈った」のである。

願いというものは、叶えられればいいというものではない。叶えられないことの中に、ある種の尊さが、深さが、慈しみがあることもあるのである。

チップの入った食器で食事をする息子。それをインターネットでチェックする母親。このサービスが、息子から、「ただただ思うことしかできなかった無力で深い母の愛」が骨身に染み、愛おしくて仕方がなくなる日を奪うことのないように願うのみである。

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