- 2008-12-21 (日) 17:36
- 武道部
今日は十三手特別講習会の最終回。昨日に引き続き、Rさん、岩崎先生、Tくんが特別参加した。
ここで大変なことが起きた。Rさんが、ばんばん技を決めだしたのである。
Rさんといえば、武道部の初代部長であるが、空手を始めて1年半で卒業、地元北海道で就職した。その後空手から離れていたが、今年の演武会を見て感じるところがあり、2年半ぶりに戻ってきたのである。8月以降、月に1回ほど北海道から稽古にやってくる。
そのRさんが、ばんばん技を決めた。もちろん稽古中に技が決まること自体は、何ら不思議なことではない。だが彼女の動きは、明らかに質が違っていたのである。
みんなの驚きを余所に、
「先生のやっておられる通りにやろうと思って、真似てるんですけど……」と彼女。
「僕(わたし)も先生のやっておられる通りに真似てるんですけど……」とほぼ全員、心の中でつぶやく。
ということは? そう、
真似てるものが、違うのである。
武道の稽古においては、師匠を真似るということがとても大切である。だが一体何を真似るのか? もちろん師匠の動きである。だがここにはカラクリがあるのだ。
一口に師匠の動きを真似ると言っても、これがとても難しい。同じようにやっているつもりでも、全然違っている。よく見ているつもりでも、見えていない。
ほんとうはよく見てはいけないのだ。よく見ようと意識すればするほど、大切なことは見えなくなってゆく。「観の目強く、見の目弱く」(『五輪書』)は何も立ち会いの話だけではないのである。ではどうすればよいのか。
よく感じるのだ。
武道の稽古においてお手本を見るとは、師匠が技を行っているときの心身の意識を、自分の感覚に写し取ることなのである。そのためには、心身を開かなければならない。
師匠と同じ結果が出る心身の運用を、自分の感覚としてつかむ
言葉による理解はこの過程を阻害するから、考えるのではなく、見るのでもなく、心身を開いて感じるのである。だがやっかいなことに、この感覚は、ただ感じたつもりになっているだけではダメで、実際に動いてみなければ、自分のものとすることができない。
要するに、動きを真似るしか方法はないのだが、同じ真似るのでも、動き自体を真似ようとするのと、動きを可能にしている心身意識を自分に写しながら真似るのとでは、全く意味が違うということである。
このカラクリに気づくかどうかが、とても大きい。武道が徒弟制度を基本とするのもこのためであるが、それについてはまた改めて述べる。
さて、Rさん。彼女は、私の心身意識を真似ていたのである。その片鱗は、既に昨日示されていた。砕破の稽古中、私が最後の部分をやってみせた途端、突然彼女が「ああ~、ああ~」と独り言を言いながら何度もそこをやり出したのである。
「昨日の砕破のあの部分をやったときに、何か、感じが分かりました」
形稽古で大切なのは、この、自分の動きを支えている心身意識を感じるということである。武道の心身意識は普通の人の日常のそれとは異質であるから、それまでの心身意識で動きだけを真似しようとしても出来ない。習い始めた形がとても不自由なのはそのためである(最初から形を自由にやろうとする人は上達しない)。
形稽古とは、それまでの日常の心身意識を、その流派で必要な動きを可能にする心身意識に作り替えるための稽古である。形稽古を繰り返すうち、心身意識が上書きされ、形の動きが自由に感じられるようになってゆく。形稽古で大切なのは、この感覚を感じるということなのである。これを私は、「自感自動」とよんでいる。「自分で感じ、自分で動く」。
彼女は、形稽古で、自分の心身意識を「自感自動」し、約束組手で、師匠の心身意識を自分に写そうとしていたのである。
もちろん今回の稽古では、他にも出来ている者もいたし、ほんとうは、多かれ少なかれ、誰でも感じていたのだ。だから、彼女が目の前でやって見せたとき、「これだ!」と分かり、驚き、彼女に引っ張られて、みんな心身が開かれていったのである。
出来ていなかった者は、頭が、言葉が、自意識が、少しだけ自分が感じていることを、自分に隠していたに過ぎない。だがこの差は決して小さくはない。
何人か、かなりショックをうけた。だがおそらくそのショックはあまりに大きすぎて、余計な雑念を一緒に吹っ飛ばしてくれたはずである。
彼ら、彼女らの来年がとても楽しみである。
実は、この講習会の後、もう一つ凄いことがあったのだが、あまりに凄すぎてここでは書けません~
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