- 2009-01-07 (水) 16:02
- 読書
発売元: 幻冬舎
価格: ¥ 1,365
発売日: 2008/07
発売元: 創森社
価格: ¥ 1,680
発売日: 2007/01/20
ミーハーな私は何にでもすぐ感動してしまう。NHK番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」で初めて木村秋則さんを見たときも、あの笑顔に魅せられ、あの話し方に聞き惚れた。台風で折れたりんごの木を地面から持ち上げようとするシーンに感動し、リンゴを手に「かわいいな。あははは」と笑う木村さんに愛を感じた。そして差し出された2年たっても「腐らないリンゴ」にびっくり仰天したのである。
自然のものは腐らず、枯れてゆくんじゃないかなあというような気持ちを持っています
その木村さんの本である。『自然栽培ひとすじに』はご本人、『奇跡のリンゴ』は石川拓治氏の筆になる。 『奇跡』はドラマチックに書かれており、『ひとすじに』の方は、次のような話が淡々と書かれている。
「私のお父さんの仕事はりんごづくりです。でも、私は、お父さんのつくったりんごを一つも食べたことがありません……」
食べさせたくないわけがない。食べさせてやりたくとも、ひとつとして実らないのですから。(45頁)
さて、『奇跡』の最初の方に、印象深いエピソードが紹介されている。木村さんは当時トウモロコシも作っていた。出来は極めて良好。ただ、タヌキの被害に悩まされた。
それで畑のあっちこっちに、虎鋏をしかけた。そしたら、仔ダヌキがかかったの。母親のタヌキがすぐ側にいてさ、私が近づいても逃げようとしないのな。虎鋏をはずしてやろうと思って手を出したら、仔ダヌキは歯を剥いて暴れるわけだ。可愛そうだけど、長靴で頭を踏んづけて、虎鋏をはずして逃がしてやった。ところが、逃げないのよ。目の前で、母親が仔ダヌキの足、怪我したところを一所懸命舐めているのな。その姿を見て、ずいぶん罪なことしたなあと思ったよ。それで「もう食べにくるなよ」って、出来の悪いトウモロコシをまとめて畑の端に置いてきた。……
次の朝、畑に行ったら、ひとつ残らずなくなっていた。と同時に、タヌキの被害が何もなかったのな。それで虎鋏をやめて、収穫するたびに歯っ欠けのトウモロコシを置いてくるようにした。それからタヌキの被害がほとんどなくなった。だから、人間がよ、全部を持っていくから被害を受けるんではないのかとな。そんなこと考えました。元々はタヌキの住処だったところを畑にしたんだからな。餌なんかやったらタヌキが集まって来て、もっと悪戯するんではないかと思うところだけど、そうはならなかった。(43頁)
木村さんの栽培は、この感性に支えられている。苦労の末、9年ぶりに花を咲かせたりんごの木を見たときも、こうである。
なんか、まともに見られないのな。……期待はしていたけど、その一方でさ、リンゴの木はまだ私のこと許してくれないんじゃないかって、心のどこかで思っていたのな。(『奇跡』166頁)
この感性は普通ではない。だからこの感性に支えられた、
この栽培法はだれでも行えるものですけれど、決してたやすい農法というわけではありません。しかしそれだけ力を尽くす価値のある農法です。(『ひとすじに』155頁)
「だれでも行える」が「たやすい」わけではない。これはもはや栽培法の話ではない。感性であり、生き方である。
もちろんこの感性は、誰でも身に付けられる。だが「たやすい」わけではない。だから「力を尽くす価値のある」ものなのだ。ではどうすればいいのか?
バカになればいいんだよ(『奇跡』23頁)
えっ?
あのさ、虫取りをしながら、ふとこいつはどんな顔をしてるんだろうと思ったの。それで家から虫眼鏡を持ってきて、手に取った虫の顔をよく見てやったんだ。そしたら、これがさ、ものすごくかわいい顔をしてるんだ。あれをつぶらな瞳って言うのかな、大きな目でじっとこっち見てるの。顔を見てしまったら、憎めないのな。私もバカだから、なんだか殺せなくなって葉っぱに戻してやりました。私にとっては憎っくき敵なのにな。(『奇跡』152)
木村さんは、りんごの木にも語りかける。
あのときは、リンゴの木にお願いして歩いていたの。……これじゃ、枯れてしまうと思ってな。リンゴの木を一本、一本回って、頭を下げて歩いた。「無理をさせてごめんなさい。花を咲かせなくても、実をならせなくてもいいから、どうか枯れないでちょうだい」と、リンゴの木に話しかけていました。(『奇跡』111頁)
確かにバカである。だがその意味はこういうことだ。
あの頃の私がいちばん純粋であったと思う(同)
そして、
バカになるって、やってみればわかると思うけど、そんなに簡単なことではないんだよ(『奇跡』23頁)。
そうに違いない。それまで正しいと信じてきた常識というものがある。それはそんな簡単に捨てられるものではない。
何より私の言うことの多くは、農業の教科書に書かれているような常識と逆。いくらよい方法だと力説されたところで、二の足を踏む人も多かったことでしょう。(『ひとすじ』149頁)
だが以前紹介した平井伯昌『見抜く力』も、「勇気をもって、ゆっくり行け」というアドバイスを次のように解説していた。
普通の人間と同じ価値観ではないことを、勇気をもってやるということを康介にはいつも要求していたのだ。(16頁)
普通の人間と同じ価値観では、最高の泳ぎができない。平井コーチがそれを捨てさせたのは、北島選手に、自分が持っている能力を最大限に発揮させるためだ。木村さんも同じ。
この栽培法は土の力を最大限に発揮させる農法です。(『ひとすじ』73頁)
だが、平井コーチがいうように、「普通の人間と同じ価値観」を捨てるにはとても勇気がいる。その勇気はどこからやってくるのか?
目の前の現実である。
この本に書いたことがただ一つの「答え」ではないのです。……もともと自然環境は、豊かな多様性のうえに成り立っているのですから、それを真似た私の自然栽培も「これさえやっておけばうまくいく」というような単純にパターン化できるものではないのです。……私にいわせれば自然の中に無数に「答え」があって、人間はそれを経験によって一つずつ見つけていくしかないということになります。(『ひとすじ』69頁)
常識や自分勝手な思い込みや、その他様々なごちゃごちゃを全部捨て、純粋に目の前のりんごの木を愛し、自然をよく感じ、りんごの木と対話し、自分がやるべき最低限のことをシンプルに実行する。ただそれだけだ。自分がすべきことは、りんごの木が、自然が、教えてくれる。
人は、どうでもいいものはいくらでも捨てられる。だが、一番大切なものを捨てることは容易ではない。だが、自分が一番大切だと信じていることを、勇気を持って捨てたとき、目の前の世界は、それまでとは違って見えてくるのだろう。
人間は技術と感覚を研ぎ澄ますことで、目に見えない世界でも認識できるようになる。(『ひとすじに』34)
これも以前書いたが、田尻悟郎氏が「教えない」を実践するのに20年かかったという。教師が教えることを捨てるのである。並大抵の勇気ではない。だが目の前の生徒を通して、新しい世界が見えていたのだろう。そしてそれは20年かけてより明確になったのだと思う。
木村さんも「栽培ではなく、リンゴの木が育ちやすいような環境をお手伝いするだけ」(番組)だという。
「なして(何で)農薬も無くて、りんごできるんだべ」
「よく聞かれるんだけど、私にも、よく分からないのな。きっとあまりも私バカだから、りんごの木が呆れて実らしてくれたのかもしれない。ハッハッハ」(『奇跡』4頁)
私も木村さんのような笑顔で笑いたい。そして年をとれば腐ってゆく人間にはなりたくない。
ただ枯れてゆきたいと思う。