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「先生」と呼べる強靱な精神力

  • 2009-01-19 (月) 11:33
  • 研究

 この前テレビをみていたら、ノーベル賞を受賞された益川敏英さんが、次のような意味のことを言われていた。記憶だけを頼りに書いてみる。

 最近は、教授でも准教授でも「さん」と呼ぶ研究室もあるようですね。これは、学問には先生も学生もなく、対等に議論をするためです。若い方の考えみたいですけどね。

 益川さんご自身の研究室ではなく、別の話の流れの中で一般論として話されたに過ぎない。そのことについて、特に意見を述べられた訳でもない。

 教員のことを最近の学生が「さん」と呼ぶことについては、別に驚かなかった。私の勤務校は工学部であり、学生は教員本人がいないところでは「さん」と呼んでいるようだからだ。少し前に、ちょっと気になって学生に聞いてみたことがある。

 「うちの学生って、本人のいないときは、先生のことを「さん」って呼んでる?」
 「……。そう言われれば「さん」って呼んでますね」
 「自覚してないの?」
 「あんまり意識したことないです。みんな自然にそう呼んでいますね」

 この時は、自分がどう呼んでいるかに対して、無自覚であることにちょっと驚いたが、それはさておき、このことは、益川さんの話とは違う。益川さんは、研究室における議論の場において、遠慮無く対等に議論をするために「先生」ではなく「さん」という呼称を選択する研究室がある、と言っておられるのである。

 だが、「さん」と呼ばなければ遠慮して議論ができないほど、日本人の精神力は低下したのか?

 普段は先生として敬意を払う。しかし学問上の議論となれば、一研究者として対等に議論を戦わせる。「先生」も学生もない。研究室であろうが、学会であろうが、そんなことは当たり前のことのはずである。「先生」と呼べばそれが出来ないなどということは、私には理解できない。それは学問に対する信頼の問題である。

 このように言うと、逆に、「さん」と呼んでも十分尊敬しているのであって、「先生」と呼ばなければ敬意を払えないなんで信じられない、と言われるかもしれない。そう言われれば、そうですね。
 私も師匠の竹田青嗣を「竹田さん」と呼んでいる(それは私が弟子入りした時に、まだ「教員」ではなかったご本人が「先生」と呼ばれることを嫌がったからだ)。
 だから「先生」と呼ぼうが「さん」と呼ぼうがそんなことはどっちでもいい。ただ「対等の議論のために」という理由で「さん」と呼ぶのだとしたら、その精神は実に脆弱なものではないかと思うのだ。

 話は変わるが、だいぶ前から、プロのスポーツ選手がガムを噛みながらプレーする姿がよく見られるようになった。ガムを噛むとリラックスでき、パフォーマンスが上がるというのである。それについて、誰かが、ガムを噛まないと力みがとれない身体しか日本人が持てなくなったということであり、それは日本人の身体能力が低下したということだ、という意味のことを書いていた。
 その通りだと思う。

 ガムなど噛まなくても力まずいいプレーが出来る。「さん」と呼ばなくても、学問上の議論が対等にできる。そんな逞しい精神をこそ私たちは身に付けなければならないのではないだろうか、と思う。

 もう一つ付け足しておく。これもだいぶ以前からだが、携帯電話などを使って質問できるシステムが開発されているらしい。面と向かって直接先生に質問するのは、学生にとって非常に大きいストレスであるから、そのストレスを減らすシステムだというのである。
 これで誰でも気軽に質問できる、というわけだ。
 
 だがどのようなシステムであろうと、質問というのは、それによって自分の理解のレベルを晒すものである。自分を晒すリスクを負わないで、十分納得のいく答え(ハイリターン)だけ求めようとする精神は、ちょっとセコ過ぎるんとちゃう?と言いたくなる。
 自分を晒す覚悟を決め、恥ずかしさやプレッシャーを乗り越えて質問できる人間を育てるシステムをこそ、私たちは作らないといけないのではないだろうか。

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