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フッサール『現象学の理念』(立松弘孝訳)

  • 2009-03-15 (日) 9:32
  • 読書

現象学の理念
発売元: みすず書房

久しぶりにフッサールを読んだ。『現象学の理念』は、院生の頃通っていた古本屋のタグがついているので、もう20年近く前に買ったのだと思う。奥付も1988年 24刷となっている。挟まれていた「通信用カード」の切手の部分に「差出有効期間昭和65年2月10日まで」とある。昭和がまだまだ続くと思われていた時代に刷られた本である。ちなみに翻訳本の初版は1965年、本書に収められた『五講義』は1907年に行われた。

 『現象学の理念』を読んだのは、現象学研究会のテキストだったからだが、私がこの本をきちんと読んだのは、たぶん今回が初めてだと思う。
 でもやっぱりフッサールは、読んでいて勇気づけられる。もちろん難解なので分からないところはたくさんあるが、そんなことは全く気にならない。師匠の竹田さんに教えてもらった現象学の核と照らし合わせながら読んでゆくと、科学とは異なった「哲学」固有の方法である現象学、「真の認識批判学」(39頁)としての現象学を確立しようとするフッサールの意気込みが伝わってきて、とてもワクワクしてくるのである。

 このような純粋現象を研究対象とする可能性がある以上、もはやわれわれが心理学の立場に、すなわち超越的客観化を行なうこの自然的態度の科学の立場に立たないことは明らかである(68頁)
  
 われわれはすでに純粋認識の分野を確保したのであるから、これでいよいよ純粋認識を研究し、純粋現象についての学問、すなわち現象学を確立することができるのである。(69頁)

 そうしてこう宣言する。
 
 現象学は直観的に解明し、意味を規定し、意味を区別するという方法で研究を進めるのである。……現象学は客観化的科学を支配する諸原理たる根本概念や根本命題を解明するのであるから(……)、客観化的学問が始まるところで現象学は終結するのである。したがって現象学は〔客観化的科学とは〕全く違った意味での学問であり、全く別の課題と方法をもつ学問である。きわめて厳密な現象学的還元の内部での直観的・イデー化的方法は現象学の独専的私有財であり、またこの方法が認識批判の意味に、また一般に理性のあらゆる批判(したがって価値判断理性や実践理性の)に本質的に属している以上、これはまったく哲学固有の方法である。(86頁)

 ただ、本書の『五講義』を序論とする講義『事物論』について、フッサールは「それは一つの新しい出発であったが、残念なことに私の弟子たちには、私が期待していたほどには、理解もされず受け容れられもしなかった。確かにいろいろな困難があまりに大きすぎて、即座にそれらを克服することは不可能であった」と記しているという(編者序 6頁)。フッサールの落胆ぶりが伺われて、何とも切ないことである。

 さて、別の研究打ち合わせが終わってから現象学研究会に参加した。中身については、西研さんと竹田さんが丁寧かつ簡明に解説してくれたので、とてもよく理解できた。また、私が最近考えている感性の問題、武道における認識とその上達の問題、教育における発達の問題を現象学はどのように考えるかという疑問(直接そう質問した訳ではなく、要領の得ない質問になったが)、いつも通り竹田さんが答えてくれた。たぶん8割くらい理解できたと思う。残りの2割は私の問題意識が詰められていないことによるので、もうちょっと頑張って考えたい。
 
 もちろん竹田さんが解説してくれた、「いろんな「正しい」があるときに、それをどう考えるか。誰でも確かめられる認識の底板を確定する、つまりどこまで行けるのか(どこから先は物語になってしまうのか)をはっきりさせる」という現象学の基本的なモチーフが本書でもはっきりと示されていることは十分理解できた。そしてフッサールがその遂行過程で、一歩進もうとすると難問が立ちはだかり、それを一つ解決するとさらなる難問がまた現れるという状況に真正面から立ち向かっていることも。
 例えば、

 しかしその反対に自己所与性一般を否定するのは、一切の究極的規範を、すなわち認識に意味を付与する一切の根本規準を否定することである。もしそういうことになれば一切を仮象であると公言し、さらに仮象そのものをも仮象であると公言する不合理を犯し、その結果全面的に懐疑論の矛盾に陥らざるをえなくなるであろう。だが言うまでもなくこのような仕方で懐疑論者を論駁できるのは、根拠を見る者、すなわち見ること、直観すること、明証にまさに意味を認める者だけである。見ていない者、あるいは見ようとしない者、論じ立て論証もする反面、自分自身は相変らずいろいろな矛盾を犯し、しかも同時に一切の矛盾を拒否しようとする者、そういう輩はわれわれにもどうしようもあるまい。

 ここでもフッサールは、現象学が「根拠を見る者」であることを明言し、懐疑のための懐疑論を批判しているのであるが、これ一つとってみても、「確かにいろいろな困難があまりに大きすぎ」るようだ。

 ところで、あまりにも唐突だが、私が専門としている支考の俳論を読むとき、私はいつもフッサールを思い出す。支考というのは芭蕉の高弟、各務支考のことである。彼の主著『俳諧十論』も、それまでにない新しい領域を開拓しようという意気込みに溢れていて、用語、文章が非常に難解である。そしていろいろな理由から、現在でもひどく誤解されたままになっている。支考とフッサールは全く何の関係もないけれども、私はとてもシンパシーを感じてしまうのである。

 『俳諧十論』を、ぜひ余計な先入観を排して、多くの人に読んでもらいたいと思う。そのために、竹田・西両氏の「完全解読」にならって、そのうち注釈しようと前々から思っていたが、その気持ちがさらに強くなった。幸い、フッサールは竹田師匠の解説なくしては読み得ないけれども、支考の方は大体読めるので。

 そんなこんなのフッサールであった。

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