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制引鎮特別講習会

 制引鎮特別講習会の最終回。
岩崎くんが特別参加した。
 今年の制引鎮は、応用の形分解を中心にやってきた。一見制引鎮の分解には見えない技を、制引鎮の動きから順序立てて見せていて、みんなに稽古してもらうというパターンである。途中難し過ぎた回もあったが、全体として非常に面白かったのではないかと思う。私自身もかなり勉強になった。
 空手をはじめとした武道の形(型)は、カタチに囚われたものであるとか、鋳型であるとか、パターン化されたものであるとか言われることがある。つまり現実の動きには対応できない、よく言われる「形は実践では使えない」というやつである。

 もちろん、そのようなものとして形(型)を稽古している人もいるのだろうが、形ほど変幻自在なものはないし、形によって練られた動き以外にその武道(剛柔流空手なら剛柔流空手)の動きがあることが私にはよく理解できない。たぶん「形は使えない」のではなく、

「形はその人のレベルに応じてしか使えないもの」

なのであろう。

 私が入門した頃、よく師匠(現宗家)が「次は制引鎮でやってみましょうか?」とか、「次は四向鎮で」などと言ってから自由組手(競技組手ではなくいわゆる地稽古)をやって見せてくれた。もちろん私には、師匠の動きのどこが制引鎮で、どこが四向鎮なのか、形のどの部分なのか、全く分からなかった。私の知っている形通りの動きなど一切出てこないのだ。

 また初段の頃、ある支部道場の道場開きで、当時七段の師範が館長と記念組手を行った。その組手の前に、師匠がその七段の師範に、「四向鎮で受けたらええよ」とひとことアドバイスした。「オス」とだけ返事して、その組手は始まった。
 そりゃもう凄かった。顔面であろうが、金的であろうが、自由自在に攻撃し、触れるか触れないかというところで見事に止めていた。館長は、道場開きの演武とはいえ、滅多にないチャンスなので、一発入れてやろうと必死で戦っていたように思う。だがその館長は、今自分が金的を潰されていたことすら気づいていなかった。私は目の前の光景に圧倒されたが、しかしどこが四向鎮なのか、やはり分からなかった。

 ところがそれが終わってから、師匠が「やっぱり○○ちゃんはよう分かってるね。四向鎮というただけで、ちゃんと出来てる」と褒めていたのである。

 私は白帯のときから、「形をきちんと練った人には絶対勝てない」と教えられ、その光景を見てきたので、「形は使えない」ということの意味がよく分からないのである。もちろん私より強い人は山ほどいるが、それは「形が使えない」のではなく、「私の形のレベルがその程度だ」というに過ぎない。
 しかも形を練って、武道の意味が分かってくると、他人との勝ち負けなんてどうでもいいことだと分かってくる。
 
 武道は自分の能力を最大限に発揮するための道であって、他人との優劣には何の意味もない。

 だから私たちが稽古を続けるのは、少しずつでもレベルアップしたいからであって、他人に勝つためではない。
 ではなぜレベルアップしたいのか?
 それには「何のため」という答がない。レベルアップしたいから、レベルアップしたいのである。
 高田好胤さんが、何のために「捨身の行」をするのかと聞かれて、「私たちはそれをただ捨身の行とだけ申して、何のためとは申しません」と答えた僧の話をされていたが、武道の修行にも、「何のため」はない。ただ自分は武道の修行中の身なので、修行しているだけである。これがまた何物にもかえがたい楽しさがあるからやめられない。

来年は四向鎮。幹事からは厳しい案内が送られたみたいだし、何人参加するか分からないが、またスペシャルな稽古になるように努力し、私自身もレベルアップしたいと思う。

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