- 2010-06-07 (月) 16:02
- 日記
昼休み、マイポットを持ってマスターのもとへ修行に。
まずは、トーストとタンザニアをいただく。トースト、美味しい。エミコさんが目を付けた通りだった。
いよいよ修行開始。
1回め、お湯の量が多すぎ。
2回め、マンダリンを淹れる。急ぎすぎ。
引いてくる時はいいけど、向こうへ行くときに急ぎすぎです。ということは、遠いんでしょうね。もっと手前に持ってきてやって下さい。自分の姿勢はそのままで、物を動かすか、近寄るか、遠ざかるかです。
「行こう」とするから急ぐんですね。
うおーっ。姿勢といい、心法といい、いつも空手の時に自分が言っていることを言われる。
3回めはブレンド。なかなかいい。
マスターも味見してくれる。
いいんじゃないですか。ちょっとマイルドだけど、でも味はしっかり出てますよね。
といいながら、マスターも淹れる。
うん、中森さんの方が、マイルドですね。僕の方が、ちょっとコクがありますね。中森さんのは、何かしながら飲むのにいいですね、飲みやすくて。
飲み比べてみる。ものは言いようだ。
これが同じ豆で淹れた珈琲か?というくらい違う。淹れた人とポット以外、全て同じである。
でも、こっち(中森)の方がいいってお客さんに言われると、そうなんでしょうね。きっと別の人が淹れると、また別の味になるんでしょうね。どれもこの珈琲の味なんでしょう。でも、エッセンスは引き出したいですよね。
実にコクのある味わい深い言葉である。我が身を反省。
学問でも武道でも、教え子は同じにはならない。それぞれ違う。しかし単に違うだけではない。それぞれの個性のエッセンス(本質)を引き出した上で現れる違いでなければならない、そう言われたのだろう。それが西岡常一さんや小川三夫さんのいう個性なのだろうと思う。
マスターは、私の淹れた珈琲を決して不味いとは言わない。間違っているとも言わない。それもこの珈琲の味であり、私の味だと言う。
でも、エッセンスは引き出したいですね。
自分と目の前の珈琲のエッセンスを引き出せれば、私が淹れた珈琲とマスターが淹れた珈琲は、今とはまた違った味になるだろう。
マスターが言うように、「私は失敗した」と思ってはいけないのだと思う。これが、今の私が引き出した珈琲の味なのだ。失敗という発想には正解という前提がある。しかしマスターが私に伝えてくれたのは、
珈琲の味に正解はないんですよ。
ということなのだろう。ただ、今の自分がいて、目の前に珈琲がある。そこで出て来た味が、今の味なのだ。でも、自分の淹れた珈琲を飲んでみて、私は、もっとエッセンスを引き出してやりたいと思う。ここまでしか引き出してやれずにごめんね、と思う。そして次に淹れるとき、また目の前の豆と正面から向き合うのみである。マスターがいうのは、珈琲を淹れ続けるということは、おそらくその思いと現実の持続だけがあるのだということだろう。いつでも本番であり、いつでもそれがそれ以上でもそれ以下でもない現在の結果なのである。
やはり、教育と同じである。目の前に現にいる人間と向き合い、お互いのエッセンスを引き出そうとし、ここまでしか引き出してやれなくてごめんねと思う。そしてまた目の前の人間と向き合う。
最近、ある教え子のエッセンスを引き出してやれなくて、とても苦しかった。今、考えると、うまくエッセンスが引き出せなくて、あんまり難しくて、私は心のどこかで、ちょっと逃げていたのかも知れない。しかし、今日の修行でなんとなく感じがつかめた。
これからも逃げずに頑張ろう、と思った。私は何度も失敗したと思っていたが、そうではない、ということを今日マスターに教えてもらった。それがそのときの味なのですよ、と。傲慢になることも、卑下することもない、紛れもない「今、ここ」の味なのである。
小川さんもマスターも、だからいつでも自然体なのである。私もはやく、教え子の、ピュアなエッセンスを引き出せる自然体を身に付けたい。
大丈夫ですよ、だいぶいい感じですよ。あとは回数をこなせば大丈夫ですよ。
帰り際、マスターが笑顔で言ってくれた。