- 2011-09-05 (月) 11:27
- 日記
兼好の『徒然草』(第186段)にこうある。
吉田と申す馬乗りの申し侍りしは、「馬ごとにこはきものなり。人の力、あらそふべからずと知るべし。乗るべき馬をば、まづよく見て、強き所、弱き所を知るべし。次に轡(くつわ)・鞍の具に、危き事やあると見て、心にかかる事あらば、その馬を馳すべからず。この用意を忘れざるを馬乗りとは申すなり。これ秘蔵の事なり」と申しき。
(現代語訳)
吉田と申します馬乗りの名手が、言いましたことには、「どの馬もみな、手ごわいものである。人間の力は、馬と張り合うことができないものだと知るがよい。これから乗ろうとする馬を、まず十分に観察して、その馬の強い所と弱い所とを知らなくてはならない。次に、轡(くつわ)や鞍の器具に、危ないところがありはしないかと調べてみて、気にかかることがあったならば、その馬を走らせてはならない。この心づかいを忘れない人を、馬の乗り手と申すのである。これは乗馬についての秘訣である」と申しました。
(引用はJapanKnowledge 『新編日本古典文学全集 徒然草』小学館 永積安明校注・訳 による)
名人とそうでない人の違いは何かという話である。
まず、
名人は、人間の力は馬には決して及ばないことを知っている。
ということである。
馬乗りの名人は馬を意のままに自在に操れると思いがちだが、実際は逆で、自分の力は決して馬には及ばないということを明確に自覚しているのが名人だというのである。
さらに、
これから乗る馬の長所、短所をしっかり把握すること。
その上で、
危険な箇所はないかと徹底的にチェックして、少しでも気がかりなところがあれば、決して馬を走らせない。
この「用意」(深い心づかい)を忘れない人を「馬乗り」(の名人)という。
この「秘蔵」の教えには、技術(テクニック)のことは一切書かれていない。名人とそうでない違いを隔てているのは、「用意」(深い心づかい)であると述べているのみである。それは、己の分を知り、これから自分が使うものをよく知り、そして少しでも危険性が感じられるものは、決っして動かさない、という「用意」である。
先日NHKのETV特集「アメリカから見た福島原発事故」を見ながら、同じだ、と思った。
「馬」を「原発」に置き換えればそのままである。
人間の力は決して及ばないことを知った上で、長所と短所をしっかり把握し、危険な箇所はないかと徹底的にチェックして、少しでも気がかりなところがあれば決して動かさない。
こんな当たり前でシンプルな「用意」を、人間はすぐに忘れてしまう。それは何も効率やコストを追い求める現代だけの話ではない。兼好の時代からそうだった。だから、この「用意」の有無が、名人とそうでない人を隔てる高い壁だったのであり、これが「秘蔵」の教えとなったのである。
おそらく原発に関わった専門家の中にも、名人もおられたはずである。圧倒的に多くの「専門家」の中で、ごく小数の名人の「用意」は生き延びることができなかったのか。
さぞかし無念だったに違いない。
私は、日本のものづくりを支えてきたのは、「高い技術力」ではなく、この「用意」(深い心づかい)だったと本気で信じる者である。そして、この「用意」のないところに「高い技術力」などあり得ないと信じる者である。つまり日本のものづくりが「高い技術力」を誇ってきたのは、日本の多くの専門家(技術者)がこの「用意」を大切にしてきたからだと信じているのである。
私はことさら「名人」と書いてきた。しかし兼好は「馬乗り」と書いているのであって、「名人」とは書いていない。兼好は、この「用意」がない人は、「馬乗り」とは言わないと述べているのである。つまり、この「用意」がない人は、名人どころか、その道の専門家ではないということである。
私は、これからの社会で、この「用意」を大切にするほんとうの意味での「専門家」が生きられるような価値観が共有されることを心から願っている。
ここで兼好が使っている「用意」は「深い心づかい」という意味である。しかし「用意」には、「まえもってしておく準備」の意味もある。
少々こじつけて言えば、この「深い心づかい」は、何かをなすための不可欠の「準備」なのである。その準備があってはじめて、何かが実行される。高い技術力が生まれ、質の高いものが作られる。
私が子どもの頃は、「用意」の大切さをさんざん言われた。「明日の用意を前の日のうちにしなさい」「プールに入る前には準備運動をしなさい」等々。運動会の前には必ず準備体操があった(今でもあるだろう)。
子どもの頃はこの「用意」の大切さがよく分からなかった。ほとんどの場合、十分な「用意」がなくても何とかなったからである。しかし大人になる中で、「用意」の大切さを身にしみて感じる経験を何度かしてきた。そして分かったのである。この「用意」の大切さを分かることが、大人になるということなのだと。子どもは用意せず行動しようとする。だから味わい深い行動にならず、かつ危なっかしいのである。しかし子どもはそれでもよい。子どもに出来ることには制約があるし、その経験によって子どもは学んで成熟してゆくからである。しかし大人は違う。
大人による「用意」なき「実行」ほど、空虚で危険なものはない。
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