山折哲雄さんのCD『親鸞と歎異抄』を聴く。2011年7月19日に京都で収録されたものである。
その中で、「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」と、内村鑑三「弟子を持つの不幸」について語っている。そういえば、『教えること、裏切られること-師弟関係の本質』(講談社現代新書)でも、この二つについて論じられていた。私はこの本に触発されて、短いエッセイを書いたこともある。
今回もう一度「弟子を持つの不幸」を読み返してみた。
「弟子を持つの不幸」は、昭和2年8月10日『聖書之研究』325号に掲載された。「原稿箱の底」から発見された「古い原稿」であると注記がある。
内村はまず、こう述べる。
自分は生涯において未だかつて、人に向かって「自分の弟子となれ」と言ったことは一度もない。それなのに多くの人は、自分から私を「先生」と呼んで私のもとにやって来たのである。そのような彼らに対して私は、「私はあなたたちの友人であって師ではない。私の宗教においては、師はただ一人キリストである」と忠告し、私の師であるキリストを紹介しようと努めた。
然るに事実は如何と云ふに、余の此忠告、此努力は百中九十九、或は千中九百九十九の場合に於ては裏切られたのである。(『全集』30巻 390頁)
内村を先生と呼んで来た者は、そのほとんどが、「自分の懐く理想の実現を想像して」やって来たのだ、という。つまり、内村の信仰について深く追究することなく、「自分の理想」を内村に見てやってきたに過ぎない、というのである。
実に余の不幸、彼等の不幸、物の譬へやうなしである。390頁
したがって無数の者が、内村に失望して彼のもとを去ったが、依然として内村に自分の理想を求めてくる者が絶えない。しかし彼等は、
近代人の悪習として、彼は師を求るに方て之に教へられんとせずして、之に己が理想の実現を迫るのである。391頁
ほとんどの弟子は、口では「先生」と呼びながら、その実、師に教えられようとするのではなく、師に自分の理想の実現を迫っているに過ぎない、というのである。だから、
彼等は己が心に画きし理想をそ其の選びし師に移し、其実現を見れば喜び、見ざれば憤るのである。(略)師が教へんと欲するが如く教へられんと欲するのではない、自分が教へられんと欲するが如くに教へられんと欲するのである。391頁
彼らは、自分の理想を師に映しだし、それが師によって実現されると喜び、そうでないと憤る。つまり彼らは、師が「こう教えたい」と思っていることを教えてほしいのではなく、自分が「そう教えてほしい」と思っているように教えてほしいのである。
内村はこれを「近代人の悪習」と呼んでいるが、近代に限らず、いつの時代でも人間というものは、ここから逃れるのは非常に難しいのではないだろうか。私の念頭にあるのは芭蕉の弟子たちであるが、芭蕉ほどその人生において俳風を変えた俳人はおらず、どんどん変化し続けた。そしてその芭蕉に、ずっとついていったのはごく僅かな弟子に過ぎない。離れていった者の方が圧倒的に多いのである。
自分の求めるものから師がズレたとき、自分が求めるものを修正して師について行くのではなく、師が変節してしまった、師はそうあるべきではない、と師に修正を求めてしまうのだろう。だからこそ、芭蕉も空海の言葉としてこう述べているのである。
「古人の跡をもとめず、古人の求(もとめ)たる所をもとめよ」と、南山大師の筆の道(に)も見えたり。(「許六離別詞」)
「古人」を「師」と置き換えても同じである。弟子は師の求めたるところを求めるのであって、師の跡を求めるのではない。しかし、師を求め、ましてや師をダシにして自分の理想を求めている弟子たちは、自分の教えてほしいように教えてくれない師に対してこう言うのである。
彼等は先生として仰ぐ人に向つて曰ふのである、「先生、貴方は斯う信じ又教ふべきであります。貴方の信仰は斯くあるべき筈であります」と。391頁
そしてそれが受け入れられないと分かると、
彼等は失望し、憤り、罵り、其師を呼ぶに偽善者を以てし、彼を去り、彼に反き、弟子は変じて敵と化し、全然絶交的状態に入るのである。391頁
こういう者は、枚挙に暇がない、そう内村は嘆いている。
しかし内村は、これらはいくつかの点に注意をすれば、多くの場合においては避けることは難しくないという。
一つは、自分の「天与の特長」を忘れないことである。内村は、自分は「労働者(はたらきて)」であって「指導者(リーダー)」ではなく、師たる資格を具えない者であると言う。つまり、
余の如きは如何なる場合に於ても如何なる人とも師弟の関係に入るべからざる者である。(着)カーライルもベートーベンにも弟子と称すべき者は一人も無(なか)つたやうに、余も亦彼等の跡に従ひ、一人の弟子なくして世を去るべきである。392頁
というのである。それが自分の「天与の特長」なのであると。
第二に、内村は、自分が人に何を与えることができるかをよく知ってもらいたいという。自分は「旧式の基督者(クリスチャン)である」と。だから、それ以外の物を自分に求める者は失望せざるを得ないのであると。
余を通うしキリストの福音を看出せし者は永く余の友人として存し、年を経るも余を去らない。十字架の福音以外のものに惹れて余の許に来りし者は、遅かれ早かれ余を離れ、余とは全然関係の無き者となつた。393頁
第三に、自分は基督者(クリスチャン)であると同時に「旧式の日本人である」という。もし基督教が日本武士の理想を実現する者であるとの事が解らなかったら、自分は基督者(クリスチャン)に成らなかっただろう、というのである。この点は興味深い。
是れ聖化されたる武士道であつて、余は此道に歩まんとして努むる者である。故に基督者(クリスチャン)であると雖も、英米流の基督者たる事は出来ないのである。(略)余は大抵の事は聖書や基督教に問ふまでもなく日本人の道徳に依て決する。先づ厳格なる日本人であり得ない者は基督信者たる能はずである。394頁
三つめの話は内村のキリスト教に対する態度が伺われて興味深いのであるが、それはともかく、師も弟子も、自分の本性をよく知り、弟子に与えることができる物、師から与えてもらえる物をよく理解すれば、お互いの不幸はだいぶ避けることができる、というのである。
しかしながら、内村には気の毒だが、師弟ともに、「近代人の悪習」を去り、お互いの本性をよく知り、何を教えることができて、何を学ぶことができるかを十分理解していたとしても、結局は師は弟子に本質的に裏切られることを避けることは出来ない。内村もほんとうはそのことをよく分かっていたはずである。むしろ「近代人の悪習」をもって、自分の理想を師に迫る程度の弟子の方が、裏切り度合いは低い。ただ近寄ってきて、ただ去って行くだけだからである。千人のうち999人は、師をほんとうの意味で裏切ることさえ出来ないのである。
内村のいうような努力をすればするほど、つまり弟子が真に師から学べば学ぶほど、師は弟子に本質的に裏切られる。逆にいうと、そこまでいって初めて、弟子は「私は師から確かにこのことを学び得た」といい得る。千人のうち999人が去り、最後に残った1人だけが、師を「本質的に」裏切ることができるのである。
本質的な裏切りを含まない学びは、浅くて薄っぺらい。
内村の嘆きは、ほんとうは、去った999人に向けられたのではなく、残った1人に向けられていたのかも知れない。
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