19日夜。
昨日の日本文学のシンポジウムの前に竹田師匠と喋っていたら、
中森くん、この後の加藤さんのも来るの?
加藤さんとのって、何ですか?
この後、加藤さんとトークセッションあるんだよ。
ええ〜っ? そんなんあるって知らんかった〜。行きます、行きます。
ということで、竹田師匠についていった。こういうこともあろうかと、新幹線の予約を最終にしておいてよかった。
ということで、ジュンク堂池袋店に着きました。
加藤典洋『耳をふさいで、歌を聴く』(アルテスパブリッシング)刊行記念
「日本のロックを批評するということ」
加藤典洋 × 竹田青嗣
前にこのブログにも書いたが、加藤さんは私の恩人である。なぜ私が救われたかといえば、加藤さんが文学の力、批評の本質を教えてくださったからである。それが今日も遺憾なく発揮されていた。もう1時間半中、興奮し続けた。
批評とは何か?
音楽とは何か?
音楽を批評することの本質は何か?
トークセッションの前は、私は軽く考えていた。文芸批評家である加藤さんが、対象を文学ではなく音楽にかえた評論だと。しかし全然違った。文学を批評することと、音楽を批評することとは全く違うことだ、と加藤さんは何度も繰り返された。なるほど、そういうことだったのか。
いつもながらの独特の比喩満載で、とても面白いトークセッションだった。竹田師匠も生き生きしていた。
最後の方で加藤さんはこういうことを言われた。だいぶ前に「他者」について書かれたときにも同様のことを書いておられたと思う。
命がけで努力して、工夫して、もうこれ以上できないというところまで作り上げた作品。それに対して誰かに、これもそれまでの人生をかけ、命をかけて、「お前の作品なんて全然たいした事ないぜ」と言われる。そういうことがあって初めて、次の段階に行けるのである。
私もついこの間、そういう経験をした。ごく限られた字数(たしか1000字くらいだったかな)の中で、もうこれ以上書けないというレベルまで書いて出した原稿に対して、編集者が、もうちょっとこの情報も入れてね、と言ってきた。いくらなんでもそれは無理ですう〜 と思ったが、仕方ないので全部書き直した。字数一杯まで書いていたので、20文字入れるだけでも、全部書き直さないと入らないのである。
しかし書き直した原稿を見ると、明らかに修正版の方がよかった。最初の原稿も精一杯努力したはずなのだが、やはり「他者」からそれを指摘されることがとても重要なのである。もちろん私はそのことも前から知っていたので、最初の原稿を出すときに、もう何を言ってきても無理だよ〜、っと思って出したのであった。しかし、言われてやってみたら、やっぱりできた。
人間とはそういうものなのだろう。
ということは、自分の精一杯に対して、「お前なんて全然だめだよ」と全存在をかけて言ってくれる人がいるということがとても幸せなことなのである。それは友人であったり、師匠であったり、いろいろである。
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