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寺田寅彦「科学と文学」

今日の国文学2は、先週に引き続き寺田寅彦の「科学と文学」。

今日の範囲は「言葉としての文学と科学」、「実験としての文学と科学」。

文学が言葉であると同じように、科学も言葉である。
ここで問題である。次の文章の【 ① 】には、科学(論文) 文学(小説)のいずれが入るだろうか?

吟味が充分に行き届いた【 ① 】であれば、それを読む同学の読者は、それを読むことによって作者の経験したことをみずから経験し、作者とととに推理し、共に疑問し、共に解釈し、そうして最後に結論するものがちょうど作者のその著によって発表せんとした内容の真実性とその帰結の正確性とを承認するのである

答えは、「論文」。つまり、これは科学について述べた文章なのである。しかしここに「小説」と入れても何ら違和感はないのではないだろうか。ここに記述されている体験が、村上春樹の小説を読んだ読者の体験の記述であったとしても。

寺田は、科学は言葉であるという。その意味は、言葉である以上、科学はは必ず表現されなければならないということである。つまり、他者に向かって表現されて、だれでもがそれを読むことが出来て、追体験できるのでなければ科学ではないのだと。

ある学者が記録し発表せずに終わった大発見というような実証のないようなものは(略)科学界にとっては存在がないのと同等である。

つまり、寺田が言っているのは、科学とは言葉であり、言葉である以上、表現されなければならない。そしてそれが読者による追体験、つまり検証に耐えるものでなければならない、ということである。ここでカール・ポパーの「反証可能性」を思い出すのは私だけではないだろう。

さらに寺田はこう続ける。

もっとも読者の頭の程度が著者の頭の程度の水準線よりはなはだしく低い場合には、その著作にはなんらの必然性も認められないであろうし、従ってなんらの妙味も味わわれずなんらの感激をも刺激されないであろう。

しかしこれは文学的作品の場合についても同じことであって、アメリカの株屋に芭蕉の俳諧がわからないのも同様であろう。

なかなか手厳しい。

しかしこのように考えると、一体文学と科学の違いはどこにあるというのか?それは、科学が「普通日常の国語とはちがった、精密科学の国に特有の言葉を使うことである。その国語はすなわち「数学」の言葉である。

では、「普通日常の国語」と「数学」はどう違うか。「数学」は、「日常の言葉と違って一粒えりに選まれた、そうしてきわめて明確に定義された内容を持っている言葉である。そうしてまたそれらの言葉の「文法」もきわめて明確に限定されていて少しの曖昧をも許さない」。

しかし、と寺田はいう。

事実は決してそれほど簡単ではない。

「数学は他の畑から借用して来た一つの道具であって、これをどう使うかという段になると、そこにもう使用者の個性が遠慮なく割り込んで来る」と。

ここで寺田が直観しているのは、「数学」が決して厳密に定義された言葉ではないということである。これもウィトゲンシュタインやクリプキを知っている私たちには既に馴染みの考え方であろう(私のウィトゲンシュタイン理解は、『はじめての哲学史』(幻冬舎)に書いたのでそれを見て下さい)。

さらに寺田は、数学が文学的であると同様、文学も数学的ではないか、ということに思いを巡らす。すなわち、

もしも、人間の思惟の方(ママ)則とでも名づけられるべきものがあるとすれば、それはどんなものであろうか。(略)自分はそこにまず上記の微分方程式のことを思い出させるのも一つの道ではないかと思うのである。

人間の思惟の方則、情緒の方則といったようなものがある。それは、まだわれわれのだれも知らない微分方程式のようなものによって決定されるものである。

われわれはその式自身を意識してはいないがその方則の適用されるいろいろの具体的な場面についての一つ一つの特殊な答解のようなものを、それもきわめて断片的に知っている。そうして、それからして、その方程式自身に対する漠然とした予感のようなものを持っているのである。

ここで寺田が述べている「方則」をフッサールは「本質」と呼んだ。ウィトゲンシュタインは、「ルール」と呼んだ。それは、厳密に取り出すことも、根拠づけることもできない。しかし私たちが普通に生活する中で、すでに、つねに知っているものである。フッサールもウィトゲンシュタインも、そしておそらく寺田も、それが厳密に根拠付けられないことに大騒ぎするのではなく、厳密に最終的には決して根拠づけられないにも関わらず、現にそれが通用していることを肯定的にとらえようとしたのである。

寺田の文章はここからどこに向かうのか。それは来週の授業までのお楽しみである。と思ったら、これから2週続けて木曜日の授業はないのであった。

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