日本の学校教育の中にディベートが取り入れられて久しい。かなり前から流行っているといっていいだろう。しかし正直に言うと、私はディベート教育というものに非常に懐疑的である。特に小・中・高校生にコミュニケーション教育の一つとしてディベートをやらせることに、素直に賛同できない。確かにそれによって生徒が身に付ける能力があることは否定しない。しかし、ディベート教育が本質的に持つ弊害がとても気になるのだ。
私はディベートは、他者と語り合うということ、表現するということの本質を損ねていると思う。
小林秀雄は講演「本居宣長」の中で、『パイドロス』を引き合いに出して、「対話」(ディアレティック)ということについて、延々と熱っぽく語っている。「心を開いて人と語り合う、その語り合う両方の心が通じるところに生きた知恵というものが飛び交う」のだと。それは日常会話における談笑の楽しさのことであるという。つまり小林は、お互いに心を開いて語り合うことの楽しさが対話の底には必ずあると考えているのである。
そして小林は、この対極にあるのが「レトリック」(=雄弁)だという。レトリックの中には、知恵の知の字もない、人を説得する術であって、それは真理とは何の関係もない、哲学にはレトリックというものは何の関係もないのだと述べる。哲学に必要なのは「対話」であり、お互い心を開いて真理を求めて語り合っているときには、相手を説得しようというような心は働いていない、というのである。さらに小林は、「対話」の最も純粋な形は「自問自答」であるとも言っている。
つまり、「対話」は双方が同じ方向を向いて、共通のあるもの(真理、共通了解)を求めてなされているのであって、決して相手と対峙しているのではない。そこにあるのは他者に心開かれた「自問自答」である。自問自答することによって自分の奥底に潜り込んだところから出てくる言葉が、お互いに心開いた場に出て来たときに、喜びも真理も共通了解も生まれる。そう小林は言っているのだ。
逆に言えば、自分の中に潜らず、自分がほんとうに信じていないことについては、本気で人と語り合いたいという動機は生まれない。それでも相手と議論したいという動機があるとすれば、そこにあるのは議論すること自体の快楽か、相手を説得できたときに得られる快楽である。そのとき「レトリック」は大きな武器となるだろう。
私がディベート教育に懐疑的なのは、人が他者に向かって表現することの動機、相手と心を開いて語り合うことの喜びを損ねているのではないかと思うからである。
思い切り息を止めて、自分の中の奥深くにダイブしてゆく。そこからかろうじて出て来た言葉、それはお互い心開いているという場でないと出せないような繊細な言葉であるが、ディベートの場ではそのような言葉は出てくることができないのではないだろうか。ディベートという場には、自問自答によって出て来た自分が本気で信じていることについて語り合うという「対話」の本質的な喜びが生まれる場がないように思うのである。
それはそれで別の場で練習すればいい。ディベートはあくまで論理的思考を鍛える場であり、人前できちんとディスカションできる能力を養成するものであると言われるかも知れない。あるいは私の知らないもっと崇高な教育効果があるのかも知れない。私も何度かディベートの実践を見学したことがあるが、そこで活躍した「優秀な生徒(学生)」と、その話題について後でもっとゆっくり語り合いたいとは思わなかった。
しかし、である。
実は最近というか少し前から、とにかく相手の論理の隙を突くことを最優先にし、突っ込みどころがなくなったら私はそれを信じますというマインドをもった学生に遭遇することがしばしばある。論文などの検証にはそれも必要だが、私は「対話」をしたいのである。授業でも、「対話」をしたくて学生に心開いて語りかけても、その学生はディベートマインドでこちらに対峙する。そうしなければならないと思い込んでいるのだと思う。私に説得されたら負けだと思っているのかも知れない。
前提つきの限定された練習であっても、よほど注意しなければそれは一般化されてしまう。ましてそこで上手く行った方法ならば、それをつい別のところでも汎用してしまうのである。「科学的思考」がそうである。これも小林が再三注意しているが、「科学的思考」はある限定された範囲では非常に有効である。しかしそれは「万能」ではない。しかし今、科学的思考、科学的エビデンスがなければ信じないという風潮が蔓延している。少し話がそれた。この問題はまた改めて。
表現することのほんとうの喜びの喪失、心を開いて他者と対話するのでなければ感じられない喜びの喪失、これらの原因にディベート教育が何らかの影響を与えているのではないことを願うばかりである。