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百尺竿頭に一歩をあやまる

  • 2009-05-26 (火) 14:59
  • 研究

 ここのところ蝶夢の『門能可遠里』を読んでいる。
その中の「不易流行」を説いた箇所で、「不易とは正風の地の躰なり。流行とは正風の曲節の躰なり」。すなわち、「不易」が基礎(地)であり、「流行」はその時々の調子や節回し(曲節)のようなものであって、その両方を学ばなければならないことが説かれている。
 「しかれども初学の人は常に不易の句躰をわすれず、ふかく心にいれて修行し給ふべし」。初心者は、基礎となる不易を深く心において修行しなければならない。そうすればその基礎から、自然と流行の句は出来てくるものである。「不易の修行地より、をのづから流行の句躰はあんぜられぬべし」。
 では基礎である不易の句を忘れて、流行の句だけを求めるとどうなるか?「流行の句躰をのみ修行あらば、百尺竿頭に一歩をあやまり、風雅の実地を踏たがへて異風に落ぬべき事也」。
 正しく修行したら到達できたはずの極致への一歩を誤り、風雅の道を踏み外して、必ず「異風」に落ちるに違いない、というのである。

 この考えは、支考の「其地をよくしれば、曲節は時に自在なる物也」(『俳諧十論為弁抄』)などを念頭に置いているものと思われるが、正しいと思う。
 俳諧も武道も芸事である。芸事の修行においては、この「地」が何よりも大切である。少なくとも武道において「地」(基礎)を忘れ、目先の変化(派手さ)に心奪われた修行者が我流に落ちてしまうのを、私は数多く見てきた。武道においては、この「地=不易」は「形(型)」である。形を正しく練っているうちに、自ずから「その人の動き」(個性)が出てくるのであって、「自分らしさ」は自分から求めるものではない。武道の存在感を前にすれば、己一個の存在など実に取るに足りないものであり、このちっぽけな己の存在を溶かすところから修行は始まるのである。それは一人稽古であれ、対人稽古であれ、同じである。
 この、己がとろける快感が修行のエロティシズムであり、バタイユが言う「連続性」のエロティシズムに通じるものである。その意味で、恋愛と武道の修行は似ているのかもしれない。とすれば、よい恋愛が出来る人は、よい修行も出来るということか?(いい加減なことばかり言っていると、「お前こそ「地」をきっちり学べ」と怒られそうなのでこの辺でやめておこう)。
 ともかく、学問においても、武道においても、仕事においても、人生においても、(他人との比較ではなく)自分自身の「百尺竿頭」を目指すのであれば、その一歩を誤らないようにしなければならない。自分自身の百尺竿頭に至る道、それは「心身最有効使用道」(嘉納治五郎)である。

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