- 2009-07-01 (水) 16:23
- 研究
去来の『旅寝論』に次のようにある。
師は針のごとく、弟子は糸のごとし。針ゆがむ時は糸ゆがむ。此故に古より師をゑらむを肝要とす。師を離れて独歩するものは、尤一口に論じがたし。又、善師有共数句を吐ず、自己に慢じて、先にすすむ事をしらざる人は、身を終る共達人に成がたし。許六のいへる、「きのふの我に飽」と、誠に善言なり。先師も此事折々物語りし給ひ侍りき。
「師は針のごとく、弟子は糸のごとし」は、「弟子は師の導くままに従ってゆく」という意味で、古典俳文学大系は、
「伝教大師の守護章にいはく、師は針のごとく、弟子旦那糸のごとし云々」(妙正問答)。この詞は『わらんべ草』『長者教』等にも見える。
と注する。『わらんべ草』は狂言論書、『長者教』は仮名草子であるが、それ以外にもこの言葉を引いた本がいくつもあるようだ。
さて、冒頭の引用は、おおよそ次のような意味である。
師弟関係は、針と糸のようなものだから、師がゆがめば必ず弟子はゆがむ。だから昔から師を選ぶことが大切とされているのである。師を離れて独り行くものについては一口では論じられないが、たとえ良い師についたとしても、修行せず、慢心して先に進もうとしない人は、生涯達人にはなれない。許六が「昨日の自分に飽きる(人が上達するのだ)」と言ったが、これはまことによい言葉である。芭蕉先生も折に触れてそうお話しになった。
良き師に導かれ、昨日の自分に飽き、日々新たな新しい自分を生きる。それが修行というものである。導く方向が間違っていても、あるいは正しく導かれてもその道をきちんと歩まなければ、上達することはかなわない。
師への戒めであると同時に、弟子への戒めである。