許六『宇陀法師』に次のような文章がある。
俳諧文章の事、習ふて書べし。惣別俳諧の文章といふ事、いにしへの格式なし。『うつぼ』『竹取』『源氏』『狭衣』の類、皆々連歌の文法也。故に先師一格をたてて門人に伝申され侍る。みだりに書ちらす人もあれど、当流の格式をしらざれば、片腹痛事共多し。序・記・賦・説・解・箴・辞など、少づつ差別有べし。真名文章は字法有て慥にわかり侍れど、仮名物には無念の事のみ多し。
俳諧の文章には俳諧の文章の「格」がある。「序・記・賦・説・解・箴・辞」にも、すべて格の違いがあるという。しかしなかなか普通の人にはそれが分からない。だから、
俳諧文章の事、習ふて書べし。
なのである。正しくそれを習って書かなければならない。いかにも武家の許六らしい。
ところで、蕉門俳人で文章の格についてしばしば言及するのは、この許六と支考である。この2人は、芭蕉が夢見て果たせなかった俳文集を編纂して出版した。しかしそこには本質的な違いがあった。それは、『風俗文選』と『本朝文鑑』の収録作品を見れば明らかである。『風俗文選』には『徒然草』は収められていない。
さて、許六は支考を批判して、こうも言っている。
此坊発句大下手也。一生秀逸の句五句となし。文章もしさゐらしく書つづけ侍れど、口より奥まで趣意が通らず、言葉つづき半分なぐり、つゐに決定したる所なし。何の格、かの格と彼がいふは、みな嘘也。惣じて和文に格なし。ましてはいかいの文章には古格として用る物なし。只手短に、持て廻らぬやうに書を俳諧文章の格式也と、先師より慥に相伝したり。此坊がいふ事うけがふべからず。(『俳諧問答』)
俳諧の文章には古格はない、という点は『宇陀法師』と同じである。しかし、「序・記・賦・説・解・箴・辞など、少づつ差別有べし。」の方はどうなったのだろうか?