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技術者が武道を修行することの意味

 以前も書いたが、

を武道部員と方寸塾・寺子屋メンバーに紹介した。高度な技術者を目指す技科大生と、会社でさらに能力を高め発揮しようとしているメンバーである。
 武道家と技術者は必要とされるものが非常に似ている。どちらも芸事であるから当然だろう。
 一つは、愛があること。本書で、職人に愛が必要であることが繰り返し説かれているが、その通りだと思う。愛がない技術者が、超一流であるはずがないと私も思う。そしてまた、一般にはそう思われていないかもしれないが、武道も愛がなければ上達しないのである。
「技術よりも人間性が大事」と秋山さんは書いておられるが、武道の技術も全く同じである。「人間性」がなければ、ある程度のところまでは行っても、所詮はある程度までであり、しかも決して長続きしない。超一流の技術を身につけようとすれば、そしてそれを維持・発展させようとすれば、「人間性」が不可欠である。例えば、謙虚さ、感謝の心が、技術が高まるにつれて育ってくるのも、優れた人間性あってのことである。
 とりあえず必要なのは、愛、謙虚さ、感謝の心、開いた心、感じる心(感性)、素直な心、気遣いといったところか。これを私は、「コミュニケーション能力」とか、「人間力」とか呼んでいるのである。
 一流になりたければ人間的に成長せよ、と秋山さんは書いておられるが、同様のことを、これも前に紹介した北島康介選手のコーチ、平井伯昌さんも書いておられたし、痛くない注射ばりの岡野雅行さんも書いておられる。というより、おそらく超一流の職人さんは、みんなそう考えておられるはずだ。岡野さんも、直接はお会いしたことはないけれども、非常に明るくパワフルであり、開かれた心を持っておられると思う。

 心が一流なら、必ず技術も一流になります。84

 二つめは、「継続は力なり」である。職人も武道家も、続けた者勝ちである。そして、器用な人より、不器用な人の方が長続きする。「地道な反復練習ができる人間なら、はじめは腕が悪くても、あとで必ず伸びる」と秋山さんは書いておられる。鵤工舎の小川三夫さんに教えて頂いた上達曲線も同じであるし、その小川さんから頂いた私の座右の銘は「不器用の一心」である。武道における私の経験でも全く同じである。

 謙虚に、ひたむきにやり続ける才能。84

 三つめは、「成長したければ、馬鹿になる」。木村秋則さんも、「馬鹿になればいいんだよ」と書いておられる。しかしこれはなかなか難しい。ここでいう馬鹿とは、自分の理屈で判断しない、自分の固定観念に囚われないということである。職人の世界もそうだと思うが、武道の世界は、それまでの普通の価値観や理屈は通用しない世界である。心も体も、一からその原理を根本的に変更しなければならない。そのとき、それまで自分が持っていた固定観念や価値観が一番邪魔になるのである。それを入門の段階、すなわち修行すると覚悟した段階で、きっぱりと捨てられるかどうかが肝要である。今までの自分はここでは通用しない、という自覚からしか修行は始まらないからである。秋山さんのところでは、入社したら男も女も全員丸ぼうずというのも、その覚悟を求めてのことなのである。

 四つめは、細かいことを大切に心を込めてやること。武道では、道場の稽古だけではなく、日常生活そのものが修行であると考えるが、職人さんも同じであるようだ。細かいことこそ大きなことであると心の底から思えるようになれば、武道はかなり上達するのである。
 
 どうしたら失礼がないか、何をしたら喜ばれるかーをいつも考えるようにすることで、自然に「人を感動させる心」が養われます。201

 もちろん仕事で、細かいこと(と自分が勝手に思い込んでいること)を、いい加減にしたら大変である。見本より2㎜太くして作るように指示されたにも関わらず、見本のままのサイズで作ってしまった丁稚を秋山さんは烈火の如く叱ったそうだ。

  なんでちゃんとサイズを確認しないんだ!そんな凡ミスをするというのは、心のなかで『たった2ミリの差だ』と思っているからだ!そんな考えは許さない!たった2ミリのことにこだわるのが職人なんだ!
 そして、注文品の材料代の半分を給料から差し引くことにして、「親に手紙を書いて、この事態を説明しろ!」と言いました。72

五つめは、人に感動を与えること。

 職人というのは、人に感動を与える仕事だと思いっています。
人を恨んでいるままでは、職人にはさせられません。179

 これが武道と何の関係があるか。実は大いにある。極められた武道の技は、見る人を感動させるのである。とても美しい。他人に見せるための、大げさな動きではない。他人に勝つための技術でもない。武道はもと武術であり、敵を殺す技術であるという人も多い。それはそれでかまわないけれども、武道の究極の境地は、それを突き抜けた境地である。つまり、自分も敵もない境地である。「無」とか「無我」とか言われる。これは哲学的な意味でもそうであり、技術的な意味でもそうである。決して抽象的なものではない。一個の技をかける技術としても必要であり、生きる技術としても必要な、具体的な技術である。
 小我に囚われている人は決して真に強くなれない。真に強くなった人は、他者に勝つなどということはどうでもいいことである。そういう境地に至った人の技こそが、非常に効くという逆説が武道にはある。そしてその動きは、とてつもなく美しく、人を感動させるのである。人を恨んだままの武道家は、決してその境地にたどり着くことは出来ない。

 もちろん私はまだ辿り着いていないが、武道の達人と言われる人は、皆共通していると思う。

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