- 2010-04-10 (土) 23:24
- 日記
1年生のオリエンテーション。
まずは浜松のスズキ歴史館。「ゆっくり見ないと時間が余るほど時間をとってます」と聞いていたが、なんのなんの全く足りないほど面白かった。もっとゆっくり全ての説明映像を見たかった。また行こう。
最初に見たのは、鈴木式織機。そこにあった映像で、織機の歴史が紹介されていた。地機(じばた)→高機(たかはた)→ちゃんから→足踏織機(あしぶみしょっき)ときて、鈴木式織機が登場する。その歴史は発明の歴史であり、画期的なテクノロジーの進化である。簡単に言えば、複雑なものも織れるようにもなり、生産性も上がり、操作も楽になった。しかしその映像を見ていて印象深かったのは、それに比例して、高度な身体感覚が失われていったということである。地機は、腰、足、手の微妙な操作を同時にやらないといけなかったが、新しい機械によって、だんだんそれが楽になってゆく。それ自体はいいことだが、身体感覚という点でいうと、だんだん退化していっているのである。
それに比べると、車の普及が足腰を弱くしたなどといった体力的なことなんて大した問題ではない。補えるからである。もちろんそれは、車を使って短縮した時間によって失われた体力を補うために、時間とお金を使ってジムに通うというおかしなことにはなるのだが。
しかし、身体感覚や身体操作は、「ちょっとジムに行って体力作り」、というのと訳が違う。一度失われたそれを取り戻すのは容易なことではないのである。
テクノロジーの進化はよいことである。しかし、それと同時に、この失われつつある身体感覚と身体操作を伝承することもまた同時に大切なことである。特に新しい技術を創造してゆくことを使命としている本学の卒業生には、自分たちの技術によって何が得られ、何が失われるかをよくよく考えてほしいと思う。
大分前になるが、画期的な質問システムを開発したと聞いたことがある。最近の学生はなかなか自分から質問をしない。馬鹿にされないかとか、冷たくあしらわれたらどうしよう、とかいろいろな心理的プレシャーがあるのだろう。しかし、メールを使えばそのハードルがかなり低くなる。だから誰でも授業中にメールで質問でき、それが他の学生にも有効な質問だと教師が判断すれば、瞬時に教室のスクリーンに映すことができるシステムなのだ。これで「誰でも簡単に質問ができます。」まさに画期的である。
しかしこのシステムによっては決して教えることができない大切なことがある。それは、「質問とは、諸々の心理的ハードルを乗り越えてするものである」ということである。質問は、質問者によって発する前に鍛えられなければならない。今それを聞いていいのかどうか、この人に聞いていいのかどうか、どういう聞き方をすればいいのか、その質問をして馬鹿にされないか、などなどの心理的プレッシャーを乗り越えて質問は発せられるものである。本当に自分に必要だと思い、知りたいと思ったら、自らそのハードルを越えてきなさい、そういうハードルが必要なのではないだろうか。そういうハードルを自ら越える力を養成することは、大切な教育である。
もちろん私は、このシステムが画期的でないと言っている訳ではない。逆である。画期的であればあるほど、それを使う人の見識が試されてしまうと言っているだけである。
最初のハードルを低く設定して、徐々に上げてゆくということは有効である場合が多い。小さい成功体験の蓄積が非常に重要であることは、私もしばしば説いている。その意味で、このシステムもうまく使えば非常に有効だと思う。しかしそれだけに、使う人の教育観が試されている、非常に恐ろしいシステムなのである。そんなことを思いだした。
それはさておき、各所に設置された映像は、どれも、スズキの方々が、情熱と工夫と技術によって、次々に新しいチャレンジをし、新しいものを生み出してゆくドラマがコンパクトにまとめられていて、素晴らしかった。最初にも書いたが、もっと見たかった。
さて、その後は再びバスにのって中田島砂丘へ。各クラスで昼食をとり、自己紹介などをして、砂丘散策。砂丘を疾走するスズキの車。
って、これ歴史館でもらったミニカーです。
そんなことをして遊んで、3時半頃、無事大学到着。
その後尚志館へ。新しい技の感覚を試してみる。かなりいいみたいなので、さらに磨くことにしよう。