- 2011-07-29 (金) 11:32
- 日記
西窪くんと「職人」と「技術者」について雑談。
「技術者」にも「職人」にもいろいろいるのに、話しているとどうしても、俗流(だめ)「技術者」と、超一流「職人」の話になってしまう。多分わたしたちには、超一流の職人さんに対する憧れがあるのだろう。そしてそういう人たちは、自分を大工だとか職人とは言うが、技術者とは言わないからである。念のためにことわっておきたいが、優れた一流、超一流の技術者が沢山いることはよく存じ上げている。ただ、
あの人は職人的な技術者だねえ
というのは聞いたことがあっても、
あの人は技術者的な職人だねえ
というのは聞いたことがない。プログラマーの世界でも、「職人的プログラマー」と言ったりするという。この時の、「職人」という言葉には、あるニュアンスが含まれている。それは、例えば、その人のコードはとても美しい、とか、その突き詰め方が尋常でないなどいろいろあるが、一言でいえば、「その人にしか書けない」ということである。
その人にしか出来ないことが出来る人を私たちは「職人」と呼ぶ(もっともそれが何でもいいという訳ではないが)。この場合は、優れているかどうかは本来はどうでもいい。一般的には優れた技術をイメージすることが多いだけである。
西窪くんは、「技術者は技術の所有者」だと言った。面白い言い方だと思った。そう言うとき、「技術」と「人」は切り離されている。そして重点が置かれているのは「人」ではなく、「技術」である。この「技術」は「人」と切り離されているので、所有者は変更可能だ。したがって、誰でも身に付けられる普遍性を持つ。
一方で、私たちが「職人」というときは、その人がもつ「技術」と一体になっている人を指す。ここでは、「人」と「技術」は切り離せない。つまり、「その人でないと持てない技術を身体に宿している人」を職人と呼んでいるのである。決して技術を「所有」しているのではない。
だから、ある職人さんが亡くなったら、その技術も一緒に亡くなるのである。
前に、俗流「科学的」思考はリスクも責任もとらない、と書いたことがある。「技術者」というときも同じである。例えば、俗流「技術者」は、不可能な局面で、「今の技術ではこれは出来ない」というだろう。しかし「職人」は、「私にはこれは出来ない」というだろう。「今の技術では不可能です」というとき、その人に責任もリスクもない。「技術」がまだそこまで発達していないのだから。しかし、「私には不可能です」という人は、全てのリスクと責任を負っている。「私には不可能」というときは、「他の職人さんなら出来るかも知れない」という可能性を必ず含んでいる。そしてほんとうにそれが出来る職人さんが他にいたら、その人は信用も仕事も失うかも知れないのである。
逆も場合も同じである。確かな「科学的な」根拠もなく、保証もない場面で決断しなければならないとき(ほとんどの重大な決断はそうなのであるが)、その決断を自分の経験も勘も含めて、人生の全てをかけて決断する。私は自分でリスクと責任をとって、自分のもつ能力(技術)に徹底的に誠実に生きている人間が大好きであり、非常に尊敬している。そういう人といるととても元気になるし、生きる力が湧いてくるからである。
私は高度な技術者を養成することを使命とする大学で教育をしている。できればリスクと責任をとり、その人にしかできないことができる「職人的な技術者」になってほしいと願っている。もちろんそれは何も特別優れている必要はない。その人にしかできない、そしてそれとほぼ同義であるが、自分自身(=自分の技術)に徹底的に誠実である、ということが肝要なのである。