- 2011-08-10 (水) 11:14
- 武道部
昨日、ある通信教育の会社の方とお話をしていたとき、その方が同じことを繰り返すことの重要性について話された。同感である。
武道では同じことを繰り返す。型はその典型である。私たちのところ(剛柔流)には型が12個しかない。何十年もそれを繰り返し稽古するのである。型以外でも同じで、稽古は基本的に同じことの繰り返しである。
ところで私が大学生の頃は、主体性と個性を育てる教育が重要であると繰り返し説かれた。しかしその結果、「個性的でなければならない症候群」を作り出し、自分には個性がないのではないかという不安と強迫観念?を抱えた若者を量産したことについてはしばしば述べている通りである。
そのことは今回はおいといて、もう一つ、大学生のとき、主体性と個性を育てるために、教師は、授業を工夫し、授業外での指導も工夫することの重要性を教えられた。「子どもの興味をひく授業の導入とは?」「子どもが自分で考えられる授業の工夫とは?」などなど。
しかし学びにおいて重要なのは、同じことを繰り返すことではないだろうか。そうだとすると、教育における工夫とは、同じことを繰り返すことにおける工夫でなければならない。
同じこと、というのは、同じアウトプットということである。
毎朝同じ時間に起きるとか、毎回同じ道順で学校にいくとか、毎回同じ動作でバッターボックスに入るとか。しかし、毎朝同じ時間に起きようとすると、眠いときもあればすっきり起きられることもある。同じ日に焼いた珈琲豆を、3日前と今日とで同じ味に淹れようと思えば、淹れ方は少し違ってくる。○度のお湯で蒸らしは○秒などと、まったく同じに淹れれば、同じ味にはならない。
自分の感覚をたよりに同じアウトプットを繰り返す。これを続けていると、感覚の感度が上がってくる。自分や外部の微妙な変化に敏感になる。そしてそれを楽しめるようになってくる。
学びにおいて、この同じことの繰り返しにおける微妙な変化に気づくことと、それを楽しめる感度の高さが非常に重要である。この感度が低い人は、学びの契機を自分で失うし、何よりすぐに飽きてしまって続かないからである。
ということは、その感度をこそ教育によって鍛えることが大切なのではないだろうか。それを教師の側が、手を変え品を変え、つまりアウトプットにおいて子どもを飽きさせない「工夫された」授業をしてしまっては、その感度をどうやって高めようというのだろうか。教師が手を変え品を変えて「工夫」すればするほど、子どもたち自身が「いつもと同じこと」を「いつもと違うように感じる」工夫をする契機を奪うことになるのである。
教師が「工夫」すればするほど子どもたちは自分で工夫しなくなる。当たり前のことである。自分でしなくても、教師がやってくれるんだから。そういう「工夫」を教師は絶対やってはいけない、と思う。もちろん教師は工夫をしなければならない。しかしその工夫のしどころを誤ってはいけないのである。
いつもと同じことを、いつもと違うように感じる。その感度をもって、いつもと同じことをやる。それができてくれば、人は自分で学んでゆく。
と、ここまで書いたときに、絵実子さんが部屋に入ってきた。
マエチンの面白い記事みつけました~
読んでみた。
涙がでそうになった。
これ、泣きそうになるなあ。
そうでしょう~ 泣きそうになりますよねえ~
と言って絵実子さんは泣いた。
詳しくは記事(晋遊舎ムック「ザックジャパン完全ガイド」所収)を読んで頂きたいが、この記事の中にも、「同じことを繰り返す」話が出て来た。
マエチンの中高生時代の林先生のお話。
朝7時から朝練習をやっているんだけど、ヤツは必ず6時15分に来て、あそこの壁に向かってずっとボールを蹴っているんですよ。オレもだいたい同じ時間に来るんだけど、アイツは雨が降ろうが風が吹こうが、試験の前だろうが、必ず6時15分に来て一人でボールを蹴っている。一日も休まず、ずっとね。
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