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顧問の部屋

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 ・今の自分にはこれ以上 (学校広報誌「天伯」No.109)

 ・充ちたことばと見えないもの (平成13年度 課外活動 サークルリーダズ合宿研修 報告書)

◆今の自分にはこれ以上…

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 今の自分にはこれ以上できない。何かをやるとき、自信を持ってそう言うことは難しい。たいていは、時間があったらもっと出来たんだけど、とか、本当はもうちょっと頑張ろうと思えば頑張れたんだけど、と自分にも他人にも言い訳してしまう。かく言う私もそうです。

 一つは、日本語法という授業です。いわゆる文章表現法の授業ですが、この授業の最大のテーマは、いかにドキドキできるか、です。

 そのためのルールが一つだけあります。それは、自分にはもうこれ以上書けないというところまで頑張ってから提出すること。授業では、毎回他人の文章に対して、皆が好き勝手言っていいことになっています。その時に「それは時間がなかったから」とか「テキトーに書いたから」という言い訳だけは決してしないこと。

 例えば、授業でいろいろ言われたSさんが、次のような感想を書きました。

 『文章で自分の思ったことを人に伝えるのは本当に難しい!』

 私の文章が先日批評された。何人かは共感したと言ってくれたし、特別ここが悪いと言われたわけでもなかった。でも何故か私にはしっくりこなかった。何故だろう?私は心にひっかかってしまったこの感覚について考えてみた。

 この感覚は、自分の表現したかったことが、どうも上手く伝わっていないようだ、という感覚です。この感覚は、文章を書く上でとても大切な感覚です。彼女はそれを決して手放すことなく、少しずつ形にしてゆきます。そして次のような結論に至ります。

 めいいっぱい書いたつもりがうまく書けていない。私が書きたかったのは、水たまりの世界を通した自分の想像力だったのかもしれない。

 文章の内容説明は省きますが、ここに至って彼女は、めいいっぱい書いたつもりで、実は表現できていないことがあったこと、自分が本当に書きたかったことが何だったのか、に気づいています。この後もう一度彼女が始めの文章を書き直したら、見違えるほどよくなることは間違いありません。

 このような経験をするためには、始めの文章をめいいっぱい書いていないといけないわけです。でないと、他人の批評に腹を立てたりすることも、自分の中に違和感が生じることもないからです。ドキドキできませんね。

 もちろん、授業はうまくいくときもあればいかない時もある。ほとんど綱渡りのようなものですが、最後に次のような感想が出てくればまずは成功です。

 ・ 日本語法の授業は僕にとって久し振りに味わう「ドキドキした」授業でした。自分の文章が読まれ批評されているのは何ともいえない感覚で、他の授業で感じ得られないものでした。(T君)

 ・ 友人に(自分の文章を)見せた所、「これが日本語法の課題?」と言われた。きっとこの授業を受ければ分かると思う。ただ課題として、どこかのWebのサイトからコピー&ペーストで、自分の作文を「作成」するつまらなさが。(S君)

 ・ はっきりいって9月当初、この授業にはあまり期待していなかった。受講動機には「期待している」と書いた。それもまんざら嘘ではないのだが、単位を取るのが一番の目的だったので、何でもいいからとにかく与えられたことをやり遂げよう、そう思っていた。

 そして授業が終わろうとしている今、この授業に対する想いは私の中で変化している。

 最初の課題の時点では、やらされている感が強かったのだが、今はもっとこの授業を受け続けたい、そう思うようになっている。それは、思っていた以上に自分の作文を批評されるのが面白いからだ。自分の作文が授業で取り上げられると、とても緊張し、顔が赤面して作者がばれるのではないかと心配する。しかし、他の学生や先生の意見を聞いていると「そんな風にもとられるのか」「そんな考えもあるのか」と、自分では思い付かないような考えを学ぶことが出来て楽しい。

 他の人の作文を読むこともまた勉強になるのでよかった。普段、他人の作文を見る機会はあまりない。これはよい、これは悪い、という例を見せられることはたまにあっても、あたらず触らずの作文は特に取り上げられない。しかし、そんな作文の中にも、さまざまな個性が隠れているのだ。そしてそういった作文の方が、自分に近い気がしていろいろ参考になったりする。それらについてディスカッションし、次回はどうしたらよいか、と自分のことのように考えることができた。(Yさん)

 もちろん私自身、反省点もあります。授業では言いますが、ここでは内緒です。

 さて、もう一つ私が「自分にはこれ以上」を要求する場があります。それは空手の練習の時です。例えば空手には形(型)というのがありますが、これが実に面白い。形(型)にはその人自身が正直に現れてしまうからです。カッコよさに拘る人、なりふり構わず必死にやる人、苦しくなったらすぐ諦める人等々。練習の時、私は「下手なのは仕方ない。でも手を抜くのはダメ、誤魔化したり、諦めてはいけない」と自分にも学生にも言い聞かせています。

 文章表現法はドキドキわくわくのため、こちらは自己鍛錬のためです。全く違うように見えますが、ひょっとしたらどこかに共通点があるのかもしれませんね。
by 中森康之

◆充ちたことばと見えないもの


 おお、みんな頑張ってるなあ、討論を聞いていてそう思った。本学に赴任してまだ一年にも満たない私としては、本学の学生たちが、討論をどのように成立させるのか、正直、非常に興味があったのである。 授業では見られない学生の姿が見られるからだ。

 討論はほとんど途切れる事なく、多くのリーダー(候補生)たちの積極的な発言によって進んでいた。授業でここまで積極的な発言を引き出すのはかなり難しい。これは自分の反省。

 しかしながら私が、頑張っていると感じたとは、発言が途切れることなく続いたからではない。そこで語られていた言葉が生きていたからである。

 実は、空虚な言葉なら、人はいくらでも出せる。空虚な言葉とは、自分の経験に根ざさない、自分自身に向き合っていない言葉のことだ。そのような言葉なら、人はいくらでも出すことができるのである。 だから、積極的な発言が続くこと自体は、いい場合もあれば悪い場合もある。また、実際に発言が途切れることがなかったというのも、本当は正確ではない。ある時は、沈黙が続いた。しかし、自分自身の経験に問いかけ、他人の経験に興味をもち、他人の話を聞き、それをまた自分自身に聞き返すという、ある種の緊張した時空が途切れることはなかった。それは言える。そこにあるのは、たどたとしくはあるけど、充実したことばであった。わたしが頑張っていると感じたのは、そのことである。

 こういう経験こそが、彼らをリーダー足らしめ る非常に大きい要因だと私は思った。リーダーというのは、普通の人には見えないものが見えていないといけない。見えないものがどれだけ見えているかが、 リーダーとしての力量である。それはマニュアルを求める心には決して備わることはない。

 ちなみに、私は欲求不満だった。こういう時空の中で、私も自分の言葉をぶつけたかったからである。見てるだけなんて、勿体な過ぎる。しかし私は、教員であって、サークルリーダ(候補生)ではなかったので、それは叶わなかった。

 授業を工夫し、教育というものをまじめに考えているほど、大学教育の中心が授業にあると思いこんでしまうそうだ。私もどれだけまじめな?教員であるか知らないが、自分の学生時代のことを棚に上げて、 知らず知らずのうちにそう思いこんでいたのかもしれない。今回改めて考えさせられた。

 最後にひとこと。教員とか学生とか、ケチ臭いこといわずに、俺も討論に参加させろ!最後に偉そうにコメントする役ではなく、討論の一員として。

 あっ、でもそれだとサークルリーダズ研修会に ならないのかもね。
by 中森康之


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