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2012-08
軽井沢ボーリズ建築探訪2
- 2012-08-31 (金)
- 日記
軽井沢2日め。
まずは睡鳩荘。
素晴らしい…。
もともとあった場所からここに移築されたのだが、いかにもここに似つかわしいたたずまいである。
1階
階段
2階ベランダからの眺め
横から
しばしときを忘れて魅入っていたが、我に返って、軽井沢ユニオンチャーチに向かう。
窓
圧迫感の全くない教会だった。キリスト教徒でも何でもないわたしが、自然に入っていって、何の違和感もなく椅子に腰掛けることができる。それがヴォーリズの設計のせいなのか、それ以外の理由によるのかは分からない。
そしてお隣の軽井沢会テニスコートのクラブハウス。
金網のフェンスがあるのが惜しまれるが、仕方ない。中に入ることができないので、コート越しに撮影。
次は集会堂。
きちんと場所を調べていかなかったので、2時間ほど迷った。2軒のお店で写真も見せて聞いたが、よく分からないようだった。到着して見れば何と言うことはない、先ほどまでいた場所のすぐ隣だったのである。しかし、迷ったお陰で、いろいろ歩き回ることができた。
しばし休息。
その次は、日本基督教団 軽井沢教会へ。
お隣はミカド珈琲。ここにヴォーリズ設計事務所があったという。
本日はここまで。
今夜のお宿に向かう。
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軽井沢ボーリズ建築探訪1
30日から軽井沢へ。
30日は、企画展「西村伊作 楽しみの為にする仕事」を見るためにルヴァン美術館へ。
実はここのところ西村伊作に注目していたので、行けてよかった。展示でおどろいたのは陶器である。西村伊作の陶器を初めて見たが、実に素晴らしい。いやいや、これは……。至福のときであった。
まだ持っていない本を何冊か購入し、cafeへ。
蜂もやってきた
とまる
しばしのんびりして本日の宿へ。
ノームの森
本館のお部屋。ここを1人使用。
夕食はレストランで。なんとここも1人使用。
明日はいよいよヴォーリズ建築探訪。
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コモンズ会
- 2012-08-29 (水)
- 武道部
久しぶりに、武道部の稽古後にコモンズ会を開催した。
学生が集まれるコモンズという場所で、稽古後白帯の学生を中心にいろいろお話をしたのである。
学生たちの以外な側面も見られてとても楽しかった。
これからも出来るだけ機会をみつけてコモンズ会をやりたいと思う。
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撃砕特別講習会
26日は、撃砕特別講習会。
最近はどんどん難しいことをやっている。
できてもできなくても別にいいのである。
ただただ稽古は楽しい。
この楽しさは、心と体が開放される楽しさである。
だから、それなりにみんな技も出来るようになる。
次回ももっと難しいことをもっと楽しくやろう。
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アントニューさんを送る会
25日、愛知県史を語る会の後、一路豊橋へ戻って、アントニューさんを送る会へ。
アントニューさんは、2ヶ月ほど前に武道部に入部した。その時点で、9月に帰国することが決まっていた。しかし彼女は入部し、空手衣も購入した。そして7月の演武会にも出演したのである。
先生が演武会に出ないかと言ったとき、てっきりジョークを言っているのだと思った。
そう彼女は言っていたが、もちろん本気で言ったのである。
彼女は一月間とても熱心に稽古を重ね、見事に演武を行った。そしてその後も休むことなく稽古に参加した。
尚志館の廣出さんは69歳で入門された。たまたま第1回演武会を見て、受付に「とても感動しました。私でも入門できますか?」と言って来られたのである。アントニューさんは、2ヶ月しか稽古できないことが分かっていて入部された。この方たちに共通しているのは、とても明るい(オープンマインド)こと、思いついたら即行動に移せること、誰よりも熱心に取り組むことである。こういう方たちと一緒に稽古できた武道部員(学生)はとても幸せだ。武道部員たちが、もし今後の人生において、何かを新しくやってみたいと思ったとき、きっとアントニューさんのことを思い出すだろう。そしてアントニューさんが身をもって教えてくれたこのことを思い出すだろう。
人が何かを始めるのに、遅すぎるということはない。難し過ぎるということはない。短か過ぎるということはない。
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愛知県史を語る会
25日、名古屋城本丸御殿復元工事現場見学会の後、愛知県立図書館へ。
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平成24年度 愛知県史を語る会
近世の尾張・三河の文化世界 -『資料編 20 近世 6 学芸』の編さんから-
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を聴講。講師および講演内容は下記の通り。
青木美智男氏「近世 学芸編について」
遠藤正治氏「伊藤圭介の洋学をめぐる半生―伊藤圭介関係書翰―」
塩村耕氏「文化の潮境に〈ふみ〉は残る」
『愛知県史 資料編20 近世6 学芸』の眼目は、「門人帳」 と 「書翰」 を中心としたことである。これは大変素晴らしい試みであると思う。個人的にも大変有難い。
講演は、これをもとに、具体的な人的交流を明らかにしながら、新しい文学史的展望の一端が示されるものと思っていたので、少々期待はずれであった。それは自分でやれ、ということなのだろう。
その中で、塩村氏のお話は、さすがにいろいろ考えさせられる刺激的なものであった。
塩村さんも何度も言っておられたが、それにしてもこれだけのものが5,000円だなんて信じられないほど安い。執筆者には大変なご苦労があったことと拝察する。本当に有難いことである。
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名古屋城本丸御殿復元工事現場見学会
- 2012-08-25 (土)
- 日記
名古屋城本丸御殿復元工事現場見学会に行ってきた。
案内板を頼りに到着すると、既に行列が…。最後尾につく。猛烈な日差しの中、木の香りがとても心地よい。40分ほど並んで入場。
二階に上がって見学。
完成は来年の予定。
見学後は愛知県図書館へ。
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来た来たcoolpix P510
- 2012-08-24 (金)
- 日記
建物全体や建物内を撮影するのに、GRⅣが大活躍してくれている。
しかし遠くの小さいものを撮るのは苦手。
そこで新しいデジカメをお迎えした。
coolpixP510である。
35mm判換算で、1000 mm相当の望遠が可能とあった。これなら大丈夫。
試しにお月さまを写してみた。
手持ち、オートでこれは素晴らしい。しかもトリミングなし。
名古屋城
上の方に見えるしゃちほこもこの通り。
しばらくはGRⅣとの二台持ちでいきたい。
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MacBook Airが…
- 2012-08-23 (木)
- 日記
ここ数日大きい画面がほしくて、Windowsで使っているモニターにMacBook Airを接続して使っていた(WindowsをDVIで、MacBook Airを VGAで接続)。ところが昨日、文章を入力している途中で、突然画面がコブラの壁紙になった。つまり、Windowsの壁紙である。その後は、何をしてもMacBook Airの方は表示されない。MacBook Airは外部ディスプレイを認識しているのであるが、外部ディスプレイの方は知らん顔なのである。
仕方なく学生部屋においてある別のモニターでもチャレンジ。ダメ。ならばとLet’s noteで試してみる。大丈夫。ということはやはりMacBook Airの側に問題がある。
そこでサポートページを見ると、予約ができるみたい。早速翌日朝9時に電話をくれるように予約(これいいですねぇ~。昔なんて、一日中電話してても繋がらないメーカーのPC使ってたので。今はもう改善されているんでしょうけど)。
翌日きちんと電話がかかってきた。
サポートの方の指示に従っていろいろ試してみる。
結局ダメ。
あとは初期化か修理に出すか、と問われ、一応初期化してみることにする。
しかし結局ダメ。
修理依頼の前にお昼御飯を食べに食堂にゆく。
と、そこでU先生とお会いした。事情を話すと、自分のアダプタを試してみてはどうかとおっしゃって下さった。食事を済ませて私の部屋まで持ってきて下さった。
さてさて…。
なんと! 映るではないか。
MacBook Air本体ではなく、本体とVGAを繋ぐアダプタが壊れたのであった。
やれやれ。
MacBook Airを修理に出さなくてよかった。
持つべきものは専門家である。
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稽古に神変あり
「稽古に神変(じんべん、じんぺん)あり」という言葉がある。
『日本国語大辞典』は、『毛吹草』や『譬喩尽』をあげ、「熱心に稽古すれば、能力以上の高い境地に達するものである」と解説する。
私たち武道を志すものは、「練習」とは言わず「稽古」と言う。なぜか?
「稽古」という言葉の意味は、「古(いにしえ)を稽(かんが)える」ということであり、「古事を考えて、物事のかつてあったあり方とこれからあるべき姿とを正確に知ること」だからである。単に何かを繰り返すこととは全く違う。練習やトレーニングは、必ずしもいにしえをかんがえる必要はないのかもしれない。しかし稽古は違う。いにしえをかんがえ、理を明らかにし、正しき道を歩むこと。これが稽古である。
かつて先人たちが歩んだ道を、自分もまた正しく歩む。かつて先人たちが辿り着いた境地に、自分もまたいつかは至る可能性を信じて。そうして日々のやるべきことを少しずつ積み重ねているうちに、ある時突然ブレイクスルーするときがある。「稽古に神変あり」とは、そのことに他ならない。
それが、いつ、なぜ自分にやってくるのかは、決して分からない。また、神変を目指して稽古するものでもない。稽古には神変というものがつきものだが、神変のためにするものではないのである。神変は、稽古の結果であり、待つしかないものである。
ただ、正しい「稽古」を続けているものには必ずやってくることもまた、正しいことなのである。
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