齋藤孝『結果を出す人の「やる気」の技術』(角川oneテーマ21)を読む。
いつもの「齋藤新書」である。私たちの世代にとってはそれほど驚くことはないが、若い人に対する感覚には共感できるし、彼(女)らに対しそれをどう語ることができるかという点で、大変興味深かった。
本書の前提は次のような認識である。
若い人のナイーブで傷つきやすく心が折れやすい傾向は、修業感覚を味わっていないがゆえの弱さだと私は思っています。97頁
私も同様の認識を持っている。しかもこの傾向がますます強くなっているように感じている。武道部ではこの「修業感覚」を存分に味わってもらえるようにしているが、それが年々難しくなってきている。
つい最近も、この前「武道部に入って本当によかった」とtwitterでつぶやいていた部員が、今度は「モチベーションが上がらないから休部したい」と言ってきた。ちょっとしたことでモチベーションが上がったり下がったりする。もちろんそんなことは誰でも一緒である。しかしその揺れ幅が極端で、しかもすぐにそれで行動してしまうのである。
モチベーションを行動原理とするのは彼(女)らの責任ではない。「自分のやりたいことをやりなさい」「自分がほんとうにやりたいことを見つけなさい」「自分を大切にしなさい」という言説の中で、むしろそれが奨励されてきたからである。その言説の中では、「やるべきこと」よりも「やりたいこと」が優先されるのは当たり前である。
しかし、モチベーションを行動原理とすることの困った点は、一つのことを長く続けられないということである。一つのことを長く続けられないと、あることを「深める」という感覚、ましてや「極める」という感覚をもつことができない。何か一つのことを続けていれば、モチベーションが上がるときもあれば上がらないときもある。長く続けている人は、たとえ今下がっていても、続けていればそのうちまた上がってくるという経験を誰でも持っているものである。最近はその経験を持たない人が増えているのであろう。
私は何もこの「やるべきこと」を、外からの強制と考えている訳ではない。これはあくまでも、自分の内的な決心として決めることである。
たとえば武道部は、入部も退部も自由である。当たり前である。だがその前提で、敢えて心構えとして言えば、いったん入部したからにはやめないという強い意志が大切である。「嫌ならやめればいい」という甘えは、本当に苦しいときの逃げ道をあらかじめ用意しておくことだからである。逃げ道があれば、ほんとうに苦しいときに踏ん張りきれない。これは小川三夫師匠が、他ではやっていけない人しか採用しない、とおっしゃる通りである。退路を絶ったところから修業は始まる。齋藤さんも「おわりに」でこう書いている。
最近大学生がOB・OGとのつき合いがうまくないのでもったいないと感じる。先日、運動部出身の三十歳くらいの人に「先輩から飲みに誘われて、断ったことありますか」と訊いたら、「考えたこともありません」という答えだった。断るという選択肢がないというのは、強い。そんな人には精神力を感じる。
いま一番欲しいのは、そんなタフな精神力を持ったビジネスパーソンだ。202頁
冒頭にも書いたが、本書は「齋藤新書」である。当然「特訓モード」「修業感覚」など、モチベーションを上げ、成果を出すための具体的なノウハウも書かれているが、それについては省略する。
さて、そのようなタフな精神は深く沈潜する。
ゾーンをつかむためには、とにかく没入してみることです。57頁
いまの時代は、一つのことに深く沈潜していく集中力を鍛える必要があると私は思っています。日常生活の中で、意識が非常に拡散しやすくなっているからです。58頁
この「ディープに「沈潜」して核心をつかむ」ことは、非常に重要だと思う。沈黙して沈潜する。この能力を鍛えた方がいい。ちなみにそれには武道の形は最適である。黙って、黙々と同じ形を何度も何度も繰り返しやった人なら、この意味が分かるはずである。
意味とか意義に関して考えることを一旦保留して、そこに没入してこなす。技術を高めることで余計なストレスを減らす。
意味はあとからついてくるはずです。66頁
齋藤さんは、「十代、二十代は「人生の修業期」と定めよう」(95頁)と述べている。
しかし今の学校にはそれ(修業の要素ーー中森注)がありません。(略)「苦しい」と感じることを続けて、がんばったことを讃えるようなカリキュラムがないのです。
そのため、無理難題のカベを突き破ることへの恐れがあります。自分の限界を超えることに挑戦しようという気持ちが湧きにくくなっている。
学校から厳しさがなくなり、ゆるくゆるくなってしまったことがいいことだとは私には思えません。96頁
齋藤さんが「特訓」や「修業の感覚」の復興を願うのは次の理由からである。
現代の日本人が修業感覚を失ったことが、感情のコントロールが効かなくなったことと結びついていると考えるからです。179頁
非合理なこと、理不尽なことは世の中に当たり前にある。そういう状況に、現代人はもう少し慣れなくてはいけないと思うのです。181頁
その自分ではどうしようもない状況を肯定して生きることが、人間の肚を作るという。
芸事でもそうですが、ある流派に入ったら、「ここの教えは自分とは合わないから別の流派に行く」などということはありえない。能ならば宝生流に行ったら、宝生流が運命、観世流に行ったら観世流が運命になる。
師に就くというのは、ある種、人生をそこに託すことなのです。
自分の環境をわが運命と受け入れて、そこで肚を据えてかかるしかない。そういった選べない状況が、むしろ人を強くしたのです。
ところが自由や選択の余地があまりにも許されるようになったことで、メンタルが鍛えられなくなった。182頁
「快か不快か」という価値基準を中心に物事を考えるようになってしまうと、努力したけれども報われないこと、快適ではないが意味のあることへの意欲が萎えてしまいます183頁
今、私たちは、刹那的な「快・不快」、「主体性」、「個性」などによらない行動原理と倫理、夢と誇りをもてる物語を構築しないといけないように思う。その意味で、竹田青嗣師匠の「竹田欲望論」は非常に希望がある。全面展開されることを切に願う。
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