日本文学協会第66回大会・国語教育の部
テーマ 〈文脈〉を掘り起こすーポスト・モダンと文学教育の課題ー
シンポジウム
於・東京大学
報告者・川嶋一枝氏・大谷哲氏・竹田青嗣氏
昨年の西研さんに続き、今年は竹田師匠の登場である。
この二人が日文協に呼ばれることについては、個人的に非常に感慨深いところがある。このシンポジウムでも川島氏と大谷氏によってしばしば口にされた「80年代問題」。その80年代、私は院生だった。当時ポストモダン思想が大流行しており、竹田師匠や西さんの話を私がしても誰も聞いてくれなかった。時代遅れの思想だと思われたのである。
しかしポストモダン思想が文学研究にあのような形で導入され流行してゆけば、やがて文学研究や文学教育は死んでしまうことは明らかであった。何より、研究者自身、教育者自身が矛盾を抱えて行き場を失ってしまう。
当時そのことを同じ院生の知り合いにも訴えたが、彼は親切に、
その方法を使えば論文を載せてくれるのに、使わないのはバカだ。
と教えて下さった。
ああ、そうですか。すみません。
でも、ようやくその問題を、「ポスト・ポストモダン」なる語で考え始めてくれたようである。嬉しい。
さて、前半はそれぞれによる基調講演。
川嶋一枝氏・「〈語り得ぬもの〉がある」と語るー「三月記」の教室からー
大谷哲氏・文学研究の「八〇年問題」と〈読み〉のグランドセオリー
竹田青嗣・批評のテーブルと事そのもの
川嶋氏、大谷氏の報告は、非常に真摯に研究、実践をされていることがよく伝わってきた。そして、竹田師匠との違いも明確であった。
竹田師匠は、例によって、だんだんのってきて、肝心の「事そのもの」についてはほとんど話す時間がなかった。しかし、文芸評論の核、文学研究、文学教育の核はきちんと示された。その中で、「作品の力」という言葉を使われた。この言葉は両氏と竹田師匠の違いを非常にクリアにすると思い、質問した。答えは予想した通りだった。
後半の討論会も、いろいろな話が出て面白かった。「国語教育の意味は?」というような本質的な質問にも、竹田師匠は、明確かつシンプルに答えられた。
全体を通して、竹田文芸批評原理が久しぶりに聞けて大変嬉しいシンポジウムだった。
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