- 2012-06-01 (金) 13:19
- essay
ジェイコブズは、正当派「都市計画者たち」を手厳しく批判するが、その要諦の一つは、彼らには「一般人に対する根深い蔑視が根底にある」というものである。
遊技場や芝生や雇われ警備員や監督者が本質的に小供にとって立派なものであり、通常の人だらけの都市街路が本質的に子供たちに有害だというおとぎ話は、一般人に対する根深い蔑視が根底にあるのです。(『アメリカ大都市の生と死』(山形浩生訳 鹿島出版会 2010年4月 101頁)
これは、子供の遊び場として、歩道のかわりに公園などを用意する都市計画に対して、歩道がいかに安全であり、公園がいかに危険であるかを訴えている箇所である。
歩道が安全なのは、「普通の人」の目があるからである。その目は、「公共的な責任」を負っている目である。いついかなるときでも、仕事でもないのに誰かがそこを見ているのである。一方の公園が危険なのは、そこには雇われ警備員がいるが、彼の目は、仕事の目だからである。雇われた人だけが、雇われた時間だけ、仕事としてそこを監視しているだけなのである。
しかしこの話は、今現にそこを通る人が安全か危険かということに止まらない、もっと恐ろしいことを含んでいる。それは、歩道における「普通の大人たち」が暗黙のうちに子供たちに教える「公共的な責任」のことである。
現実世界では、子供たちが成功した都市生活の第一原則を学ぶのはーーそもそも学べたらの話ですがーー都市の歩道にいる通常の大人たちからだけなのです。その第一原則とは、人々はお互いに何らつながりがなくても、お互いに対し多少なりとも公共的な責任を負わなくてはならない、ということです。102頁
大切なのは、これは言葉で教えられただけでは決して学ぶことができない、ということである。
これを言われただけで学ぶ人はいません。自分とは何の姻戚関係も友人関係も役職上の責任もない人が、自分に対して多少なりとも公共的な責任を果たしてくれたという体験から学ぶものなのです。102頁
そしてもう一つ、この「公共的な責任」は、雇われ警備員には決して教えることができないということである。
こうした都市住居についての指導は、子供の面倒を見るよう雇われた人々には教えられないものです。というのも、この責任の本質というのは、雇われなくてもそれをやるということだかです。それは両親だけでは決して教えきれないものです。(略)こうした指導は社会全体から与えられねばならず、そして都市でそれが与えられるとすれば、それはほぼすべて、子供がたまたま歩道で遊んでいる時間に与えられるのです。103頁
子どもたちの遊び場を歩道から公園や遊技場へ移し、その安全を「普通の大人たち」から「雇われ警備員」へ託したとき、そこに住む大人たちは「公共的な責任」を果たさければならないという都市の文化が壊れ、逆に安全性が脅かされるようになる、そうジェイコブズは主張しているのである。ジェイコブズは「文化」とは言っていないが、文化といって差し支えないだろう。そして一度壊れた文化は、修復するのにとても時間がかかる。いや、ひょっとしたらもう元には戻らないかも知れない。
ジェイコブは、「都市計画者たち」が計画する都市が、斬新でないとか、美しくないとか、計画者のオリジナリティーがないとか、理論的に整合性がないとかと言っているのではない。彼らによって計画された都市は、「一般人に対する根深い蔑視」を根底にもつゆえ、人間の文化を破壊し、普通の生活を破壊すると言って怒っているのである。
ジェイコブズがこれを訴えてから50年。状況は改善されたのだろうか。もしそうでないなら、都市計画や建築が一体誰のためにあるのか。私たちはそれをもう一度考えなければならない。
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