- 2009-01-22 (木) 8:06
- 日記
今日は父の命日である。
小学生くらいまでは、あちこち遊びに連れて行ってくれた。「子どもだけで野球をやりに行ってはいけません」と先生に言われたら、一緒に行き、私たちが野球をするのをずっと見守っていてくれた。月食があると言えば、夜中に起きて車で望遠鏡やカメラを運んでくれた。
だがいつからか、私と父は、ちょっと不思議な関係になった。お互いとてもシャイだったからだと思うが、ほとんど直接しゃべらなくなった。必要最低限のことは、母親を通して伝え合った。もちろんお互いに嫌っていた訳ではない。とても好きだった。
普通は思春期が過ぎればそういうこともなくなるのだろうが、私はいつまでも大人になりきれなくて、その奇妙な関係はずっと続くことになった。
2005年の正月もいつものように帰省していた。年内から具合が悪かったらしいが、私にはその素振りすら見せず、母にも口止めをしていたようだ。
妻の実家を経由して、1月4日に家に戻ったら、留守電が入っていた。今日父が入院したと。
翌日病院に行った。
今日は仕事は休みか?
休みや。
しばらくして、
また来るわな。
ああ
かわした会話はそれだけだった。だがなぜか帰り際、私は無意識に手を差し出した。父も黙って握手した。なぜ自分が手を差し出したのか、今もって分からない。ただその握手は、私たちの40年間の関係の全てを溶かし込んだ。
帰りの車の中で、止めどもなく涙が流れた。
父は、私だけでなく、家族や自分の周りの人のために生きた。
自分の母親が寝たきりになった時も、8年間介護に通った。毎日のように家族の送り迎えもした。偏屈で大酒飲みであったが、人のために生きた。
父の引き際は見事であった。
自分と母の部屋の絨毯を新しいものに交換し、身の回りのものを全て整理してから、
今までずっと人に尽くしてきた。もうそろそろ休憩させてもろてもええやろ。
と母に言って入院し、そのまま他界した。
父は、見ず知らずの多くの人を救った訳ではない。ただ、自分の仕事を定年まで勤め上げ、家族を支え、家族や自分の手の届く範囲の人の世話をしただけである。
孫のセンター試験の日が過ぎるのを待って、私が病院に行ける日を待って、1月22日午前4時55分、家族に見守られながら息を引き取った。
大切な人の死の意味は、直後ではなく、後からじわじわと自分の中に浸透してくるものだということを私は知った。
そしてもう一つ、母親が父親をとても愛していたということを、私は知ったのである。