- 2009-04-30 (木) 8:39
- 武道部
昨日の続きをちょっと。
全身全霊は、気合いとは違う。一所懸命とも違う。全身全霊は、これまでどのような生き方をしてきたか、普段どのような生活をしているか、どのような価値観を持って生きているか、何を目指して生きているか等々、その人の存在全てを含んでいる。
例えば前日夜中まで飲んでいて、演武会当日だけ必死にやる。それで、「自分は全身全霊で演武しました」と言われても、誰でも違和感を持つだろう。当日全身全霊の演武ができるかどうかは、むしろ、それまでどれだけ準備をしてきたかが、ほぼ全てである。何も演武会だけではない。日々の稽古も同じである。その日の稽古を全身全霊でやるには、それ以外の時間をどう過ごしているか、が大切になってくる。授業もあれば、研究もある。仕事もバイトもあるかも知れない。そのような事全てを含めて、自分の存在があるのである。
全身全霊は、それまで自分が生きてきた人生をかけて、今の自分の全存在をかけて、はじめて結果として現れることもある、そういうものなのである。
もちろん優れた武道家なら、いつでも出したいときに出せる。しかし私たち凡人は、ただ必死にやって、結果として出てくるのを待つしかないのである。最初は自分では出せない。自分のコントロールを越えて、出てくる、のである。しかしそれを繰り返すうち、自分で出せるようになってくる、はずである。
比喩的に言えば、自分が今持っている殻を破らないと全身全霊は出てこない。自分の全存在をかけるためには、自分の殻を後生大事にもっていては、かなわない。それまでの自分をその都度捨てなければならないのである。
ボクシングのチャンピオンであり続けたければ、一度チャンピオンベルトを返還して、挑戦者と同じ場所に立って、防衛戦に勝って、またそれを自分で奪うことを繰り返すしかない。手放しては獲得する、この繰り返しだけが、チャンピオンであり続ける条件である。この連続には、無数の断絶が含まれているのだ。もし試合前に一旦チャンピオンベルトを手放すことを拒否したら、その時点でその人はチャンピオンである資格を失うのである。
自分が変わるためには、まず捨てなければならない。新しいものが得られることが保障されていない段階で、である。この順序を間違えると、役に立つことしかしない、つまり、この稽古が何の役に立つのかを納得しなければやらない修行者になる。何のために勉強するのか?というのと一緒である。少なくともそういう修行者が上達することはあり得ない。
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ
この逆説が信じられた人だけが、溺れなくてすむのである。
稽古前にはそれまでの自分を一旦捨てる。必死に稽古して、稽古が終わったら、結果として、なんとか紙一重で新しい自分を獲得できていた。その繰り返しが出来たら最高である。
もちろんこれは単なる精神主義ではない。武道は、武術という身体の技術を通してそれを行うのである。
道場はそのための空間である。自分をさらけ出して、自分の存在をかけて稽古する場所は、特別な空間、敢えて言えば神聖でなければならない。だからみんなで掃除もするし、出入りの時には一礼もする。そこを特別な空間にするかどうかは、そこにいる人の心次第である。
もう紙一重のところまで来ている部員が何人かいる。だがこの紙一重が難しい。風船を膨らまして破裂させる瞬間には、それまで以上の力が必要なのと同じである。だがここで一踏ん張りしなければ、風船はしぼんでしまう。
勿体ない!
多分次回には爆発させてくれるだろう、と信じている。
逆に、とても心配な部員もいる。今一番心配しているのは、f、y、m。