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俳文学会第62回全国大会2日目

  • 2010-10-17 (日) 18:22
  • 研究

 17日。二日め。

 朝一で、徳島県立文学書道館へ展示「俳人の書」を見に行く。ホテルから歩いて10分ほどのところ。ささっと見て研究発表会場へ。
 最初の研究発表に間に合った。拝聴。今回の大会は留学生が頑張っている。
 昼休みは編集委員会。
 午後から研究発表。
私の発表は一番最後。題して、

『俳諧十論弁秘抄』について ー美濃派研究の可能性、例えば環境問題

 昨夜完成したPPTのスライドを全部使うと、どう考えても時間内に終わらない。急ぎ足で発表。
 まず『俳諧十論弁秘抄』が支考自身による十論講の講義録であることを説明し、現在確認できている諸本を紹介。その後、内容について説明した。
 この本、支考の俳論を実に端的に解説してくれているのである。中でも私が長年主張してきた、支考の虚実論は心の働かせ方であるということを、はっきり語ってくれている。曰く、

 虚実の二論は心法にあり。

 その他、「諷諫」「滑稽」「時宜」「人和」などこれまで私が解読してきた支考俳論用語も、実に的確にに解説してくれる。

「時宜」は「人和」なり。
「諷諫」則「媒」也。

などなど。
 いい加減、「虚実」を「虚構と真実」だなどという過った解釈をし続けるのはやめなければならない。「詩歌・連俳といふ物は、上手に嘘をつく事なり」(『二十五箇条』)の呪縛から逃れよう! と訴える。
それに囚われているかぎり、支考の俳論の本質、そして「諷諫」「滑稽」「時宜」「人和」などの意味、相互の関係が全く理解できないからである。
 さらには支考俳論の俳諧史的展開が見えて来ない。
 例えば、支考が説く俳諧が「心の俳諧」であり、「虚実は心法である」ということが理解できれば、それが蝶夢の「まことの俳諧」へと受け継がれてゆくことがみえてくる。それは文芸に限定されない、普通の人が日常を生きる人間の道としての、「心の俳諧」である。ということで蝶夢の俳諧観についても簡単に説明した。
 その他、十論講の様子が少し具体的に分かる、『為弁抄』の性格が明確になるなど、本書の意義についてもいくつか説明。
 最後に、俳文学研究の今後の可能性の提案として、環境問題への可能性について提案した。
 俳諧が心法であり、俳諧が普通の人が日常を生きる人間の道であるなら、その俳諧観を受け継いでいる膨大な美濃派の俳書群は、今までとは違った価値をもってくるのではないか。卑俗、低俗とマイナス評価されているそれらは、まさにそのことによって、当時の人の普通の感覚や思考パターンを反映しているとも言えるからである。
 例えばこれから環境問題を考えようとするとき、社会システムや制度、政策、テクノロジーなど様々な観点が必要であるが、もう一つ不可欠なのは、その社会の中で実際に生活する、人間の意識であり、価値観の問題である。これからの環境社会に相応しい意識、価値観とはどのようなものか。それを明らかにするでなければ、真に有効な環境研究はなし得ないだろう。そして文学研究、とりわけ俳文学研究は、その点について役割を果たすことが可能ではないか。これまで、江戸時代の日本が優れた環境社会であったことは、社会制度、社会システムなどの観点から数多く指摘されているが、その中で実際に生きて生活していた人間の意識、感覚、価値観について、俳文学研究は多くの知恵を持っているはずである。 というようなことを言った。
 最後に文学と工学の共同研究について、句碑の解読の事例を紹介して発表を終えた。2〜3分の超過で済んだ。

 質疑応答は、十論講の聴衆の知的レベルと関心について。これは非常に重要な問題である。その場で考えを述べたが、今後もよく考えたい。
 もう一つは、環境問題に関して。私のような考えが、むしろ俳文学研究をダメにし、環境問題もダメにするとは考えられないか?というもの。つまりそんなことを考えた文学研究はツマラナイ、と。サービス精神旺盛の質問だった。
 それを承知の上で、私の考えはこうだ。
 指摘されていることはよくわかる。しかし、文学研究が閉じられた世界で「文学」の研究に終始してきた、まさしくその意識と価値観、研究方法によって、支考は不当に評価され、蝶夢は無視されてきたのではないか?いわゆる「純粋な国文学研究」の観点と方法論でしか支考の俳論を見ることができなかったから、支考が「俳諧は何のためにするのか?」を繰り返さざるをえなかった理由が理解できなかったのではないのか。
支考は、俳諧そのものの存在意義と魅力を、俳諧に初めて触れる人に説いてまわった。外に向かって、その面白さ、意義を説かなければ、それを普及させられないと考えたからである。
 「名人」(=天才)はそんなことをする必要はない。ただ「(俳諧の)道」に遊んでいればいい。しかしそうでない「上手」は、その「名人」が切り開いた「道」を普及させる役割がある。そう支考は考えていたのである。
 俳文学研究にも「名人」と「上手」がいるだろう。私は俳文学会あげて環境問題に取り組めと言ったのではない。俳文学研究が環境問題など、他領域に道を開いておく必要があるのではないか、と言ったのである。
 今の若い人の多くは、環境問題に関心を持っている。そういう人に、環境問題をやりたければ文学部に行って俳諧を研究しなさい、ということもあっていいはずである。何度も言うが、俳諧は普通の人が日常を生きる人間の道なのだから。
 環境問題というのは非常に刺激的なトピックだったようで、その意味では大成功だった。もちろん私が本当に伝えたかったことが理解されるのは、まだまだ先の話である。
 ただ、その後の公開講演のためにちょっと早く来て私の発表を聞いたという一般の方が、発表終了後、「工学などの分野に文学的なものを入れるのは非常に大事だと私も思う」と言いに来てくださった。
 私の発表で62回全国大会は終了。その後堀切実先生の公開講演。
 堀切先生とは支考俳論、虚実論の解釈も全く違うし、他にも違う点が多々ある、そんなことはどうでもいい。私は堀切先生の志を支持しているのである。だからこそ安心して批判できるのである。
 終了後も、「虚実論はこれからもずっとやりますよ~」とバトル宣言された。嬉しい限りである。

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