- 2010-11-26 (金) 15:02
- 研究
先日、島津忠夫先生の講演会(「天性の詩人・西山宗因―連歌と俳諧と―」平成22年7月31日 於八代ロイヤルホテル)の資料を見ていると、岡西惟中の『近来俳諧風体抄』の次の箇所が引かれていた。
物は自然の妙にいたれば、感応ある事多し。余にことし正月廿一日より源氏物語講ずべきよし、門下の人々所望ありければ、桐つぼの巻よりよむべき事に成ぬ。余が家月次廿日の発句を、十九日に成て梅翁へこひ申ければ、
初会や殊にすぐれて時めき給ふ
とあそばし給りぬ。是、源氏桐つぼの巻の詞也。奇妙の事也。
島津先生がこれをどう解説されたかは分からないが、このような「感応」を惟中が意識していたと知り、とても嬉しくなった。
物は自然の妙にいたれば、感応ある事多し。
のちに芭蕉が実践し、支考が解説するように、俳諧はこの「自然の妙」に至ることを重視する。もちろん、芭蕉は「造化に帰れ」とはいうが、「感応」については言わない。支考も「道理」とか「虚実自在」とはいうが、「感応」については論じていない。「感応」自体は直接句作と結びつく訳ではないから、当たり前と言えば当たり前である。しかし芭蕉や支考も、この「感応」をしばしば体験していたことは間違いないだろう。
武道の修行を続けていると、この「感応」の感度が上がってくる。単に流れにのっているだけなのに、あらかじめそれが全て用意されているかのように、出来事や物が向こうからやってくるのである。
チクセントミハイのフロー理論によって基礎づけられた「燃える集団」を可能にする「長老型マネジメント」を提唱している天外司朗がよく口にする「共時性」も、これとほとんど同じである。
「共時性」が感じられたら、即それに乗っていくのが良い結果を生む。(『マネジメント革命』61頁)
当然惟中もそうした。
やがて脇に、
七十以上の梅の下風
とつかうまつり、廿日の会めでたくミちぬ。
もちろん「感応」は結果であって目的ではない。「感応」を求めるとろくな事はないだろう。惟中も、「自然の妙にいたれば」結果として「感応ある事」が多くなると言っている。
私は武道を研究・修行しながら、俳諧を研究し、哲学・思想を勉強している。さらに「人間力」と「コミュニケーション」を研究・教育しながら、それと関連したマネジメントも勉強している。この一見何の関係もないものは、私の中では、この「妙」と「感応」という点で繋がっているのかもしれない。惟中は「自然の妙」と言っているが、それが自分自身の問題であることは、惟中もよく分かっていたはずだ。そして私は西田耕三『近世の僧と文学』(ぺりかん社)の副題を思い出す。妙幢浄慧の言葉。
妙は唯その人に存す
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