- 2012-01-19 (木) 9:44
- 授業
国文学Ⅱ。村上春樹『海辺のカフカ』。
二人めのプレゼンが終了し私の話になろうかという、そのとき、一番後ろに座っていた学生が、こう言った。
先生の言ってることが分かりません。
うぎょ!???
村上春樹が言いたいことが分からない。
先生の言ってることも分からない。
「全部言葉にできなくていい」というが、その意味が分からない。
たいたいそんな感じだっただろうか。
小説は、研究論文とは違うので、明確な結論がまずあってそれを読者に伝達するものではない。最初に「結論」があって、その後に「論証」があるものではない、と何度も言ってきた。
では伝えるものがなくて書いているのか?
と問われるので、
そうではなく、伝えたいものはある。しかしそれは書く前に、明確に言語化できないような「何か」である。
と説明する。
一読して読者が分からないのは、作者の責任ではないか。作者にはきちんと説明する義務がある。
と言われるので、
研究論文はそうかも知れないけれども、小説はそうではない。「モヤモヤ」が残ったり、分からなさが残ったりする場合もあるが、その場合は、その意味を考えることが大切である。
小説にはその分からなさの中に、何か大切なことがあると直観させる力が必要である。それがない小説はダメ。
『海辺のカフカ』も論理的にはよく分からないことが沢山ある。そのように書かれている。そして、ここには大切な「何か」が語られていると私は思う。だから私はそれを問うのである。先週の発表者は、それをとても上手く解いてくれた。あんな風にいろいろ考えてみればいいと思う。もちろん最後まで問うた結果、そこにはたいしたものがなかったということも、ありえない訳ではない。だから問うのである。
じゃあ、ひとことで言えば、分からなくていいということですね。
いやいや、それはひとこと過ぎで……
途中からもう一人加わって、三人でだいたいこんなやりとりをした。
聞いていた学生も面白がって聞いていた。たまに発言しながら。
文学好きの人と話しても絶対出てこない疑問などが出て来て面白い。そして鍛えられるのである。
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