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頑張った私を褒めてね……

  • 2012-03-13 (火) 19:30
  • essay

結果よりも、頑張ることが大切である。

どうもそういう価値観が蔓延しているような気がする。
事実、小学校や中学校、高校、高専でそう言われてきたという学生もいる。

適当にやった80点より、一所懸命頑張った60点の方がエライ、という訳である。
なるほど一理ある。しかし現実には、この「理」をとらず、多くの場合、

頑張ったこと自体に意味がある。

となってしまっているように思えて仕方がない。さらにそれは、「頑張った私を認めて症候群」となる。「結果が悪かったけど、私は頑張った。その私の頑張りを認めてほしい」と。

それが、「私の頑張りを認めないのは不当だ」という自己主張となる場合はまだましであるが、自分の頑張りが十分に認められていないと感じたとき、つまりは褒めてもらえないと、多くの場合は黙って傷つく。あるいは不安になる。拗ねることもある。そしてそこに何かしらの理屈を付加して変な自己主張をするようになるのである。こうなるとやっかいである。そういう心の構えは、自分を不幸にするだけだからである。なぜならそれが変な理屈であることは、当の本人がほんとうはよく分かっているからである。

少なくとも、私が関わっている武道ともの作りにおいてはそれでは困る。

武道の最終目的は、生き延びることである。
その意味では、頑張っても頑張らなくても、生き延びられれば、どちらでもいいのだ。そして、実はいわゆる「頑張り」は、私たちの心身のパフォーマンスを逆に低下させてしまうことを武道の先人たちはよく分かっていた。だから武道においては、「頑張って」はいけない。いわゆる「頑張る」ことをせず、心身のパフォーマンスを最大化した方が、結果的に生き延びる確率が上がるからである。

稽古においても、頑張りはときとして我流に走ることとなる。きちんとした指導をうけることなく、間違った稽古をがむしゃらに頑張ったら、ろくなことにはならない。間違った方向にどんどん進んで行くくらいなら、何もしない方がましである。

もちろん武道の稽古において、「頑張った私を認めて症候群」になったら大変困ったことになることは言うまでもない。武道の技において大切なのは、出来ているか出来ていないか、つまりは結果だけだからである。

もの作りも同様である。

この家は雨漏りがするけれども、一所懸命作ったのでそれを認めて買って下さい。

とか、

このテレビは音がでないけれども、一所懸命作ったのでそれを認めて買って下さい。

と言っても、誰も買ってはくれない。

100点満点のものしか製品として出せない。プログラムなどでは後でバクが見つかることもよくあるが、しかしあらかじめバグがあることが分かっていて売り出す製品はないはずである。

誤解のないように言うと、私はもの作りにおいて、それを作った人の魂、といって悪ければ「人間力」が重要であると信じている。魂の込められたもの、人間が浮き彫りにされているものを私は愛する。しかしそれは、「頑張った私を認めて症候群」とは無縁の精神である。

私は現代において、武道を学ぶ意味の一つがここにあると考えている。武道の価値観は、現代の風潮とは逆行するものがたくさんある。しかしだからこそそこに光明があると考えるのである。

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