前期の国文学1が終了。
朝の挨拶で、建築の学生が、設計課題やら学生コンペやらいろいろ忙しいという話をしたので、それも大切だけど、そんなことより、学生は「建築とは何か」「設計とは何か」「自分はなぜ建築の仕事をしたいのか」「自分の仕事の本質とは何か」等々、先人の知恵(本や現物など)を借りながら、じっくりゆっくり考える時間が大切であると話した。学生はアウトプットばかりしてないでインプット、つまり勉強すべしと。
ペーター・ツムトアもこう述べている。
私たちは、建築の歴史は自分の設計にはなんの影響もない、一般教養だと思っていた。そんなわけで、私たちはすでに創造されていたものを創造し、創造不可能なものを創造しようと躍起になっていたのだ。……しかし遅くとも建築家として実務に就く頃までには、建築の歴史に蓄えられた膨大な知識と経験を学んでおくほうがよいだろう。(『建築を考える』(鈴木仁子訳 みすず書房 2012年)23頁)
建築史は自分の設計の仕事には何の影響も与えない一般教養だと思っていた、しかし今はそうは考えない、「実務に就く頃までには」それをしっかり勉強しておいた方がいい、そう述べているのである。「実務に就く頃までに」、つまり学生時代に、である。
それをせずコンペやら何やらに忙殺されるのは、スポーツ選手が、じっくり実力を養う練習をせずに、試合ばかりをしているようなものである。もちろん試合は楽しいし、それによって学ぶものもある。それでしか学べないこともある。が、それだけでは長い目で見たとき、ほんとうに高いレベルにまで到達することが出来ないのではないだろうか。
「ほんとうに高いレベル」というのは、自分の全存在をかけることが出来るレベルである。自分の全存在をかけて生んでこそ、はじめて創造の域に達する。それが個性となるし、それまでの流れを変え、全く新しい価値観の提示ともなる。一所懸命というのとは全く違う。「ものをつくる」というのはそういうレベルでの話であるということが、初めから実践ばかりやっている人にはなかなか実感できないのである。
試合ばかりに出ていても、ある程度の才能があればそのリーグの中で一番になることはできるかも知れない。しかし、そのリーグ自体の意味、方向性の是非を問うことが難しい。そこで一番になることだけを目指していると、そこで通用している価値観自体を問うことが難しいのである。そういう仕事は空虚である。
誰かが指し示し、多くの人が目指している方向にむかって、一番前を走ることは出来ても、走る方向が変わればとたんに精彩を欠き、まして自分で新しい方向性を生み出すことができなくなってしまう。これでは「回転木馬のデッドヒート」である。「回転木馬のデッドヒート」は、充実感を生むが、真の意味での幸福感を生むことはできない。どこにも到達しないし、何も創造しないからである。
建築史が教えてくれるのは、建築の本質である。つまり、建築とは何か、建築は誰のためにあるのか等々であり、自分が建築に関わることの意味である。しかし、ツムトアが言うように、「実務」に就いてからではそれをゆっくり学んでいる余裕がなかなかない。だから、学生時代にそれをゆっくり、じっくり学ぶことがとても大切なのである。
これは何も建築に限ったことではない。他の専門の学生も同じである。自分がそれをやることの意味をよく考えることをはじめ、学生時代にしかできないことを学生時代にやるべきである。
こういう話をすると、大抵は鼻で笑われるか、「むかつく」と言われるのだが、この授業の受講生は、「まともな意見だ」と言ってくれた。そういう変な?(私から見ればまっとうな)学生が集まってくれた授業だった。とても楽しかった。学生に感謝、感謝である。
ちなみに最後の授業は、吉本ばななの『アルゼンチンババア』、小林秀雄と岡潔の『人間の建設』。国文学の授業で、学生とアインシュタインについて議論するとは、昔は思ってもみなかったが、これまた楽し。
最後は「人間にとって建設とは何か」(建築分野ではなく何かを作ること一般)についての議論。「ものづくり」というけれども、ものをつくるとは本質的にどういうことなのか。ものづくりに関わっているみなさんは、このことについてよく考えたことがあるのか?と問う。
発表者が、「この本には「人間は本質的に建設はできない」と書いてあったと述べたので、それを問うたのである。
学生のみなさん、もっともっと青臭い議論をしましょう!
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