“Discovery Japan 2012年6月号「建築でめぐる日本観光」”を入手。
小川三夫師匠が登場しておられる。
表紙には、
東京スカイツリーのお手本は法隆寺の五重塔だった!
とある。
中にも、
ハイ、実はそうなんです。
五重塔の心柱がお手本なんです。
という、設計部門デザインパートナーの方のお話が掲載されている。
五重塔に敬意を表して「心柱制振」と名付けられた世界初の制振システムを採用した、と。
それでは「お手本になった法隆寺五重塔に行ってみよう!」ということで、法隆寺へ。
そこで小川師匠と法隆寺執事長の古谷正覚さんにお話をお聞きするという企画である。
いきなり、「スカイツリーの免震構造は法隆寺五重塔の心柱を参考にしています」と、核心の質問。ところが、小川師匠のお答えはこうだった。
うーん、スカイツリーの柱と心柱は、まるっきり違うということではないけども……、そもそも心柱は支える柱じゃないんだよ。
古谷さんも、
心柱も拝む対象であって、塔全体が、お釈迦様のお墓ですから。
と続けられる。その後も小川師匠が少し説明されているが、要するに、スカイツリーの柱と心柱とでは、全く「意味が違う」ということなのである(お二人ともそういう言い方はされていないが)。
これはとても大切な問題である。
スカイツリーを設計した方は、五重塔の心柱をヒントに制振システムを開発したとおっしゃっている。しかし小川師匠は、それは心柱の意味を失っている、だから心柱ではない、とおっしゃっているのである。たしかに心柱には、塔全体の振動を吸収する働きがある。しかしそれを取り入れたスカイツリーの柱からは、「心柱とは何か」という心柱の本質が完全に捨てられてしまっているのである。そもそも五重塔は心柱がメインであって、塔は心柱を守る存在なのである。「貫を抜いたり(穴を開けること)、釘を止めたりも絶対にしない」(小川)。
西岡棟梁や小川師匠は、五重塔に入れば、飛鳥の工人と対話できるとおしゃっておられる。彼らが何を大切にし、何を思い、何と格闘したのか。それらを思い出し、受け継ぐのが「伝統」である。師から弟子への「技術」の伝授など、「伝統」でもなんでもないと前に小川師匠がおっしゃっていた。
飛鳥の工人たちにとって心柱とはどういうものだったのか。なぜ絶対に貫を抜いたり釘を止めたりしなかったのか。そういう中で彼らは何と戦ったのか。そういう「心」の対話の中にしか「伝統」はないというのである。ということは、「東京スカイツリーのお手本は法隆寺の五重塔だった!」と言ったとたん、その「伝統」は捨て去られてしまったと言わざるをえない。確かに「技術」の一部を受け継ぎ発展させたかも知れない。しかしそれは、「当時の人にはそんな意識はなかったよ」(小川)という心柱の免震構造という「技術」だけを「つまみ食い」したと言っているのと同じである。それを支えていた「心柱とは何か」という「心」が忘れ去られているからである。
私は何も、心柱から現代的な制振システムを開発してはいけないと言っている訳ではない。素晴らしいシステムが開発できたのであれば、必ずしも心柱の本質を受け継いでいなくても構わない。しかし、それは単に「あるもの」からヒントを得て開発された独立した一つの「技術」であるというだけの話であって、できあがったものは、心柱とは何の関係もない。それは例えば、川で流れている枯葉を見て開発された自動改札システムが、枯葉の本質と何の関係もないのと同様である。
しかし枯葉と自動改札に比して、心柱とスカイツリーの柱は、あまりに近すぎた。あまりに近すぎたが故に、ここから「伝統」が奪われ、本質が失われたことが見えなくなってしまったのである。
スカイツリーには日本の最先端の素晴らしい技術が生かされている。そこに集まった技術者たちの熱い思いもお聞きした。(講演:田村達一氏(株式会社 大林組 技術本部企画推進室副部長)「東京スカイツリーの施工技術」)
しかしそれゆえ、私たちは、スカイツリーの柱と法隆寺の五重塔の心柱は、全く違うものであることも、深く心に刻んでおかなければならないと思う。飛鳥の工人にも、現代の技術者にも、どちらにも最高の敬意を表するために。そして、スカイツリーの柱と五重塔の心柱が全く別ものであるということによってのみかろうじて浮き彫りにされる、五重塔からスカイツリーに受け継がれた日本のものづくりの「伝統」があるということをはっきりさせるために。
私は、今のところ、このような言い方でしかここにある大切な問題を言うことができない。おそらくこのような言い方では、特に建築関係の方のご理解は得られないだろうと思う。なんとももどかしい。しかし、やはりここでどうしても言っておかなければならない、そう思った次第である。
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