- 2012-08-18 (土) 12:25
- essay
建築家の隈研吾さんが「図書」2012年8月号に「取り返しがつく世界」というエッセイを書いておられる。
その文章は、「僕はいまだに原稿を手書きで書く」で始まる。コンピュータで書くと、「確定」してしまう感じがして耐えられないからだそうだ。
全ての決定のプロセスにおいてー建築の設計も、原稿でもー僕はこの、取り返しがつかないという感じが大嫌いで、いかに取り返しがつく状態にしておくかが僕の日常のテーマとなっていて……
だから隈さんは、一発勝負で取り返しがつかない「コンクリート打放し」は、自分にはなじまないという。
もやもやとした「草稿」からはじめて、すこしずつ霧が晴れていくように、自分は何をいいたいのか、やりたいのかわかってくるという日常である。
私もやはり、こういう「創造」がなじむ。だから私が考えているコミュニケーションも、やはりこういう経験である。「もやもやとした草稿」からはじめて、何度もやりなおし、やりなおししているうちに、かろうじて言葉にできる。相手にうまく伝わっていないとなると、またやりなおす。その繰り返しこそがコミュニケーションである。だからコミュニケーションは取り返しがつく。断定しようが、何しようが、後からいくらでもやり直せるのである。いくらでも取り返しがつくということが共有されていれば、勇気をもって断定できる。つまり自分の意見をはっきりと言える。そこからコミュニケーションが始まるのである。
断定は、コミュニケーションの終わりではなく始まりである。
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