ホーム > 日記 > 人は自分のレベル以上のものは見えない。だが……。

人は自分のレベル以上のものは見えない。だが……。

  • 2009-02-03 (火) 17:36
  • 日記

 人は自分のレベル以上のものは見えない。だが、自分のレベル以上の存在を感じることはできる。だから上達できるのだと思う。

 先週の水曜日の武道部の稽古で、紫帯(6級)が皆の前で形の一部をやった(撃砕第一)。

 どこが間違っているか分かりますか?
 分かる人、手を挙げて下さい。

 手が挙がったのは、緑帯(5級)以上であった。

 答えは「途中で引き手が緩む」。

 突きの時、引き手をきちんと引いて、引き手から神経を抜かないことは、入部した時から、基本中の基本として教えられている。だからおそらく全員が、引き手が大切であることは知っている。だが、実際に目の前で、それが疎かにされている動作を見ても、見えないのである。
 この、「知っている」と「見える」の間に非常に大きい壁がある。見えなければ、もうすぐ入ってくる新入部員の指導は出来ないし、何より、自分の動きのチェックが出来ない。自分の動きのチェックが自分でできなければ、上達はままならない。だから武道においては、見える人に見てもらうことが大切なのである。

 さて、「人は自分のレベル以上のものは見えない」のだが、一方で、人は自分のレベル以上のものを感じることができる。研究でも、武道でも、自分には理解できないが、「何か凄いなあ」という印象だけが残ることがある。もっと凄いのになると、凄いのかどうかも分からないが、ただただ強烈な印象だけが残る。この感度の鈍い人は、研究にも武道にも向かない。もっとも武道は、稽古によってまさしくこの感度を上げるので、最初のうちは鈍くても大丈夫である(研究も修業を積めば大丈夫でしょう)。
 例えば武道でいうと、私にも師匠の技の印象がいくつか残っていて、それを見た5年後とか10年後に、「これか!」ということがよくある。多分勝手な思い込みに過ぎないのだが、それでも自分の中では、

 あの時のあれはこれか!

なのである。この時は、とても楽しく気持ちがいいもんである。

 おそらく、稽古とは、見えるものをしっかりと見て、見えないものを敏感に感じる。そしてそれを稽古によって見えるようにする。その繰り返しなのだろう。 
 何もなく、全く手探りに稽古することは難しい。だが、その境地の存在を一度見せて貰えば、そこを目指すことがうんと楽になる。楽になると言っても、何十年もかかるのだが、それでも一度も見たことがない境地に行くのと、一度でも見たことのある境地を目指すのとでは、雲泥の差である。
 武道家が他人に技を見せないのもそのためだ。決して、「こうきたらこう受けて、このように攻撃する」などという、技の段取りを知られないためではない。技を見せるということは、その技を可能にしている境地を見せるということであり、一度見せてしまった以上、そこにはどんどん他人がやってくるということである。秘境の温泉と一緒である。
 だが、一個人としてではなく、技術の伝承ということでいうと、そうやって技術は発展してゆくのだ。だから、弟子には技を見せる。そうすると、弟子は必ずそこまでやってくる。そうしてその中の優れた弟子は、師匠を越え、さらに新しい境地に到達するのである。

 武道的には間違っているが、私は自分を成長させるためには、これが一番いいのではないかと思っている。つまり、自分のMAXの技をいつでも見せるのである。そして弟子がそこまで来る前に、次のレベルに逃げる。逃げ遅れて追いつかれたら、終わりというゲームである。いつまで続くか分からないが、このプレッシャーはとても楽しい。
 だがこんなことを楽しんでいる私は、武術家ではありえないのだと思う。もっとも、私の今いる境地など、誰でも一度見れば、あるいは見なくても来られてしまう、言ってみれば、団体旅行のバスで行ける程度の温泉に過ぎないのだから、ほんとうは見せるも見せないも何もないのである。

ホーム > 日記 > 人は自分のレベル以上のものは見えない。だが……。

カレンダー
« 2025 年 1月 »
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
最近の投稿
最近のコメント
カテゴリー
アーカイブ
リンク
中森康之研究室
武道部
俳文学会
現象学研究会

ページトップに戻る