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『俳諧十論』の講義録

  • 2009-06-28 (日) 18:58
  • 研究

 俳論研究会で、支考『俳諧十論』の注釈書を読んでいる。注釈書というより、支考自身の講義(十論講)をもとにした講義録である(ただし講義録そのままではない)。『俳諧十論』の講義録といえば支考自身が出版した『十論為弁抄』があるが、それと全く同じ体裁で書かれている。『為弁抄』の別本と言ってもいいだろう。ただし本文中で「先師」と言われているのが、おそらくは支考のことであると思われるので、内容的には支考の教え(十論講)を基にしているが、書いたのはその門人ということになる。何本か写本があり、そのうちの一本は、美濃派道統三世、盧元坊の伝書として伝わっている。ちなみに、本文中に『為弁抄』の名が出てくるので、『為弁抄』出版以後に書かれたものである。
 これが実に面白い。『俳諧十論』は同時代の俳人にとっても超難解で、江戸時代に書かれた解説本と批判書のほとんどが、『俳諧十論』を理解できていないと言っても過言ではないのであるが、そんな中でこの本は、群を抜いて理解が深く正確なのである(支考の講義が基になっているので当たり前であるが)。例えば十論講の講義録であると明言されている『俳諧十論発蒙』などよりはるかに分かりやすいし、『為弁抄』よりも分かりやすい箇所さえある程なのである。もちろん支考の教え(文章?)がもとになっているので、難解で意味不明の箇所も少なくない。しかし『俳諧十論』を理解する上で、非常に重要な本であることは間違いない。
 この本を初めて知ったのは、もう20年ほど前のことである。私の初めての学会発表は、支考俳論には「先後」なる概念があり、それが支考の認識表現方法として重要であることを指摘するものであったが、江戸時代から発表当時に至るまで、支考俳論において「先後」などという概念があることを指摘した本は、一つもなかったのである。だが発表の準備をするうちに、一本だけ、その「先後」を解説項目として取り上げている本を見つけた。それが今回読んでいる本である。
 結局、院生の私は生意気にも、「この本は支考のことを分かっているじゃないか」と思っただけで、学会発表には使わなかったのであった。
 またその後の支考俳論解読にも使わなかった。使わないどころか、読みもしなかった。それは自分自身で『俳諧十論』を解読し、それを論じることで精一杯だったからである。しかし、ほぼ『俳諧十論』が理解できた今、この本を読んでみると、自分の『俳諧十論』理解が的外れではないことが分かって、率直に嬉しいし、『俳諧十論』の理解がさらに深まった。
 この順序でよかったのだと思う。もしこの本を先に熟読していたら、そしてそれを使って『俳諧十論』を論じていたら、私はおそらく『俳諧十論』や支考俳論の核心を掴めなかったかもしれない。『為弁抄』とこの本を適当に引用すれば、もっともらしい論文が書けてしまうからである。
 私が『俳諧十論』解読に使ったのは、フッサールであり、ハイデガーであり、ウィトゲンシュタインであり、竹田現象学だった。そして井筒俊彦であり、西谷啓治であり、禅や『荘子』(の解説本)だった。国文学研究として邪道だと言われるそのような方法が、支考を理解するのには適していたのではないか、と思う。なぜなら支考は、「国文学研究」の正道では捉えきれない俳諧師だったからである。そのあたりの事情については、「連歌俳諧研究」で論じたので、興味のある方はそちらをご覧下さい。
 さて、今回の本、今年度中の紹介を目指している。どうぞ楽しみにしていて下さいね。

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